文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

無重力の夕方(井沢)

いつも遊んでいた子はいるはずのない子だった。
母が近所へ出かけたりご飯の支度で不在になり、さて残った子供たち二人で何をしたものかという折にいつもその子は現れた。金髪のバービー人形に母の手作りのニット服を着せたら「じゃあこのオーロラ色のスカートにしようよ」と提案してくれたり、縄跳びの回数を横で数えてくれたり、一人でゴム跳びをしようとゴムの片端を物干し竿に、もう一方を外水栓に括り付け、それでは具合が悪いので蛇口の上にバケツを被せて幅を広くしようと画策していると、いつの間にかゴムが抜けないように押さえていてくれた。表のブロック塀と家との間を忍者のように横歩きで進むのを人に見つからないよう見張ってくれたし、家の中でも外でもしょっちゅう遊んだ。穏やかで優しいお姉さんだった。私も珍しく家族以外に人見知りをせず、「さきちゃん」と呼び、しばらくは姉の友達だと思っていた。

ある日、姉と二人で遊んでいた時に何の気無しに聞いてみた。
「ねえ、さきちゃんはお姉ちゃんとおんなじクラスなの?」
「え?」
姉は驚いた顔でこちらを見た。
「ううん。おんなじ学校じゃないよ」
そうなんだ。このへんの子なのに小学校違うんだ。身体が弱そうなところもないし、学校通っていないということは無さそうだった。それからしばらくさきちゃんの姿を見ることはなかった。

数ヶ月後か数年後か、その夕方は黄砂の影響で辺りの空気も景色もセロハンを貼ったかのように黄色く、お勝手の外に二つ並んだプロパンガスのボンベも母と姉の自転車もわざとらしい陰影を落としていた。夏だった気がする。独りで遊んでいた私の前にさきちゃんが現れた。変わらず親しみのある優しい笑顔だったから、嬉しくていつものように駆け寄った。
「さきちゃん、遊ぼう」
「ごめんね、もう遊べないんだ」
「なんで?さきちゃん。ゴム跳びしたい」
「ごめんね、遊びたいけど、もうこれ以上のんちゃん達とは遊んじゃいけないんだ」
「なんで?やだ。遊んでよ。学校の宿題大変なの?」
それとも嫌いになったの?学校が楽しくて私たちと遊ぶのはつまらなくなっちゃったの?わんわん泣きながらさきちゃんに食い下がった。
「遊んであげられるけど、そうするとのんちゃんはもうお母さんともお姉ちゃんとも、お父さんおじいちゃんおばあちゃん家族の誰ともお話しできなくなっちゃうよ。それでもいい?」
思いがけぬ返答に言葉を失ってさきちゃんを見上げた。言葉の物騒さとは裏腹に、さきちゃんはもう諦め終えたような穏やかな笑顔を浮かべていた。まるで私の答えは聞かなくても分かっているというように。泣いていた余韻でまだ脳がじんじんと痺れている。声が出なかった。それだけのことだが、「お話しできなくなる」というのはおそらく遠くへ連れ去られるという類のことではなくこのように私の声を奪うということだと理解できた。私は声を出せないまま首を振った。さきちゃんは穏やかな声で続けた。
「私はのんちゃん達が大好きだからもう一緒にはいられないの。のんちゃんはこれからどんどん言葉を覚えて、お母さん達とお喋りして毎日楽しく過ごして大きくなってほしい。」
声は失いたくない。でもこんな二択があるだろうか?声か友達か。声というより言語の発達そのものか。確かに最近は読める漢字が増えてきて絵を追っているだけだった漫画も文字のところを読めるようになってきて楽しかった。はっきりとは覚えていないないが、さきちゃんが現れなくなったのと言語の習得は同時かもしれない。
「これで私はのんちゃん達の記憶からは消えていくけど、忘れないでね。のんちゃん、大好きだからね」
いやだ。さきちゃん。忘れたくない。
「お父さんお母さんとおじいちゃんおばあちゃんと仲良くね。大事にするんだよ」
うん。大事にする。それとさきちゃんのことも忘れたくない。
答えは決まっていたし、わがままだということも分かっていたが、二択から選べるようなものではない気持ちは正直に伝えたかった。さきちゃんは泣いているけど笑顔だった。さきちゃんはこういう別れを何度も経験してきたのだろうか?そう考えるといたたまれなくなった。
「私のことは忘れるけど、楽しかったとのんちゃんが感じた気持ちは残るよ」
せめて今どう思っているかは忘れないでいようと強く強く念じた。涙を落とし切るように目を固く閉じた。

目を開けるとなぜ自分が泣いているのか分からなかった。ひどく湿度が高い。ひとり佇む私と勝手口のドアの間に重力を無くした埃がゆっくりと漂っている。黄色く重い空は影と実体の境目をみるみる吸収して青い夜が始まった。

何か取引をしたというかさぶたのような記憶は幼心に残った。忘れていく最中の「ああ私はこれを忘れてしまう」というはっきりした感覚。何についてかも分からないがそのことについて考えるとその時と同じだけ胸が痛んだ。

なぜ今になって思い出したのだろう。言葉を知る前のことでも残った感情と景色を手繰って辿り着けるのならば、いずれ失うはずの多くのものにも色が匂いが音が湿度がある限り辿り着ける。何がスイッチになるか分からない。「ほんとう」かどうか答え合わせのしようが無いが正しいと思う。