文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

書き出し自選・くのゐちの5作品(くのゐち)

くのゐちと申します。大伴さんからバトンを受け取り、今回の書き出し自選を担当させていただくことになりました。

 

さっそく行きます。

 

 

嘘つき村は実質的に正直村だ。

(第90回 自由部門)

 

むかし、こんなクイズがありました。

 

旅人が分かれ道にやってきた。片方は正直村に、片方は嘘つき村に続いている。旅人は正直村に行きたいが、どちらの道へ進めばいいか分からない。そこへ村人がやってきた。彼は正直村か嘘つき村、どちらかの村の住人だ。正直村の住人なら必ず本当のことを言い、嘘つき村の住人なら必ず嘘をつく。彼に一度だけ質問をして、正直村に行く道を教えてもらいたい。さて、なんと質問すればいいだろうか?

 

皆様、わかりましたでしょうか? 正解は「あなたの村へ行くにはどちらに進めばいいですか?」という質問です。正直村の住人なら、素直に正直村への道を教えてくれますし、嘘つき村の住人なら、嘘をついて正直村に続く道を教えてくれます。

このクイズがクイズとして成立するのは、村人が「どちらの村の住人か分からない」から。言い換えると、彼が本当のことを言っているのか嘘をついているのか、旅人には分からないからです。もし、村人が必ず嘘をつく人間だと最初から分かっていれば、彼の言う逆のことを常に信じればよく、旅人が疑心暗鬼に陥る必要はまったく無くなります。

そこから分かることは、仮に、このクイズに登場する嘘つき村が実在したとしても、そこでの人々の暮らしは、正直村のそれと基本的には変わらないはずだということです。そういう意味では、本当のことを言っているのか嘘をついているのか分かったものじゃない、現実の人間が住むこの世界こそ、真の嘘つき村と言えるのかもしれません。

 

 

跳び箱とロイター板の間にスジャータが落ちている。

(第106回 自由部門)

 

人が暮らしていると、そこには多かれ少なかれ、暮らしの痕跡が残ります。「生活感がある」という表現をよく聞きますが、生活感は、部屋に残された暮らしの痕跡の総体から滲み出てくる、温かくて生臭くてユーモラスな空気と言うことができるでしょう。私にこの自選のバトンを渡してくださった大伴さんの「ワンシーン画」にも、見事な生活感が溢れています。

生活感の滲み出る暮らしの痕跡は色々ありますが、その一つとして挙げられるのが、どこかしらの隙間に落ちているスジャータ。冷蔵庫と食器棚の間であったり、テレビ台の下であったり、ふとした拍子に転がり込んだまま放ったらかしにされたスジャータは、そこに暮らしの営みが存在することの象徴であると言えるでしょう。

では、そんなスジャータが、生活感とは程遠い場所に落ちていたらどうでしょうか? この作品では、跳び箱とロイター板の間にスジャータが落ちています。皆さんもご存知の通り、跳び箱というものは生活感から程遠い代物。主に子供たちが馬跳びの訓練をするだけのために仰々しく作られた、やたら存在感のある木の箱です。そしてその跳び箱を上手に跳ぶためだけに作られたロイター板は、さらに生活感から遠いものと言えるでしょう。そんな跳び箱とロイター板の間にスジャータが落ちていた時、そこに生活感は生まれるでしょうか? 生まれるとすれば、いったい誰の、どんな生活の背景が浮かび上がるでしょうか? ひょっとすると、池谷直樹氏のポケットから跳躍の弾みで落ちただけなのでしょうか?

これは生活感と非生活感の頂上決戦であり、その勝敗は読み手一人ひとりの想像の中に委ねられています。

 

 

口内炎を舌で結ぶ。僕だけの星座が浮かび上がる。

(第113回 自由部門)

 

胃腸の調子が悪いと、そのサインとして口内炎ができるらしいです。以前から思っているのですが、体の中のAという部位が不調であることを、また別のBという部位を不調にすることで知らせるのは、一体どういう了見なのでしょうか。Aが不調ならAが痛めば済むことでは? なぜ胃腸と口腔の理不尽な二重苦、泣きっ面に蜂みたいな目に遭わなければならないのか、理解に苦しみます。

自分の場合、口内炎は同時に複数個できることが多いです。唇の裏、舌の裏、歯茎、思い思いの場所にできた口内炎は、幸せな食事の時間を苦痛の時間に変えてしまいます。ひどい時は呼吸をするだけで痛んだりします。「口内炎が痛いから会社を休みます」という文句は世間では通用しないでしょうが、実際、風邪や頭痛、腹痛など、他の体調不良に引けを取らないくらい辛いのが、口内炎というものでしょう。

そして、痛いと分かっていながら、あえて刺激したくなるのが口内炎です。舌の先で口内炎に触れてみると、直線的な痛みとともに、ビールのつまみにでもなりそうな塩辛い血の味がします。そうやって、口内炎を一つずつ味わい、最後はそれぞれを線でつなぐように舐めていく。すると、目の前に浮かぶのは、大なり小なりの星たちが織りなす、世界中の天体マニアでさえ未だ見たことのない、美しい星座。痛覚、味覚、そして想像の視覚を経て目蓋の裏に輝く星座は、満身創痍な胃腸が見ている走馬灯のようにも思えます。

 

 

何度追い払っても、股間にコウモリがぶら下がってくる。

(第128回 自由部門)

 

コウモリと聞いて誰もが思い浮かべるのは、洞窟の天井などにぶら下がっている姿だと思います。地球上にはたくさんの生き物がいますが、逆さにぶら下がっている状態が標準などという酔狂な生き物は、彼らくらいではないでしょうか。とは言え、そんなコウモリの特異な生態は、基本的に我々の生活とはまったく関係のない事柄です。しかし、もしある日、一匹のコウモリがバサバサと飛んできて、あなたの股間に突然ぶら下がってきたら? そして、そいつを追い払っても追い払っても、またブーメランのように戻ってきて、執拗に股間への停留を繰り返すとしたら? ロビンソン・クルーソーの肩に鳥がとまっているのならサマになりますが、股間にコウモリをぶら下げて格好が付く人はなかなかいないでしょう。これから人と会わなければならないのに。大切な商談があるのに。手で払っても、地団駄を踏んでも、デジタルな動きでいったん飛び去っては、また戻ってきて、クシャクシャッと股間にぶら下がるコウモリ。どうやっても打破できない現状に、そのうちあなたは呆然と立ち尽くすだけになるでしょう。そのコウモリはもしかすると、あなたの心に棲まう閉塞感の化身なのかもしれませんし、はたまた、単純にあなたの股間が、偶然にもコウモリにしか分からない基準でとても居心地がよく、コウモリ界の股間市役所で住民票を移してしまわれたのかもしれません。

尚、この作品は、2年前に東京で行われた書き出し小説大賞授賞式の際、私の作品の中で唯一、秀作として朗読いただいた作品です。それまで私は他の作家様といっさい面識がなく、イベント中も途中まで誰とも会話しないまま、この後の懇親会には参加しようかしまいかとうじうじ悩んでいる時に、前方のスクリーンに大きく(よりによって)この股間コウモリが「くのゐちの作品」として公開され、朗読された瞬間、もう絶対に誰とも話すことなく直帰しようと決意したものですが、幸い温かく社交的な作家様方がたくさん話しかけてきてくださり、楽しく濃密な時間を過ごしましたこと、未だに思い出しては夢のように感じています。

 

 

取引先の言った「巻き糞」を私が「撒き糞」と解釈したことが、会社に2億円の損失をもたらした。

(第138回 規定部門:うんこ)

 

ミスをしないよう気をつけること。これは、ほとんどすべての人にとって、人生にずっとつきまとうテーマであると言えるでしょう。若き日の野心的な夢を諦め、リスクのない、不安のない、波風の立たない安定した日常を選んだとしても、「ミスをしないようにすること」から解放される人は、まずいないのではないでしょうか。取引先に送るメールに誤字脱字が無いか? 出張先の地で乗ろうとしているこの電車は反対方向ではないか? いま購入しようとしているスマートフォンの契約に厄介なオプションは付けられていないか? 他人に迷惑を掛けぬよう、自分が損をしないよう、人は神経をすり減らして、ミスに注意します。

私自身も、ミスを恐れながら暮らす小市民の一人であり、後々の不安を取り除くためにも、様々なことを入念に確認します。

「念のためおうかがいしますが、今おっしゃっていただいた マキグソ というのは、撒菱のように地面へクソを撒く意味ではなく、とぐろを巻く方の意味でよろしいでしょうか?」

時には、「そんな分かりきったことをいちいち聞くな」というトーンの返事がかえってくることもありますが、それでも、確認しておくに越したことはありません。もし、巻くべきクソを撒いてしまったとき、あるいは、撒くべきクソを巻いてしまったとき、取引先が、自社が、そして自分自身がどのような損失を背負うことになるか、その糞害(ふんがい)は、想像するだに恐ろしいことですから。

 

 

以上、書き出し自選でした。

 

私が書き出し小説に初めて投稿し、採用されたのは第77回。今から5年ほど前です。それからずっと、投稿するのも他の作家様方の作品を観るのも、日々の楽しみの一つになっていましたが、一方で、正直、自分の作品はこの「書き出し小説」という文学にいまいちハマっていないというか、他の方々の作品と比べて、味のしない、つまらないものばかり書いているなという気がずっとしていました。しかし、今回、自選を書くにあたり、自身の過去の作品を改めて振り返ってみると、そこまで悪くないというか、味気なさがむしろ清々しいような、不思議な感覚に陥ったのです。私にバトンをくださった大伴さんは、私の作品のことを「ドライアイスのような作風」と評してくださりました。機微たっぷりの書き出し文学の中で、味のない冷徹な自身の作品も、これはこれで映えるということなのかもしれません。そしてそれはまた、この書き出し小説という文学の、懐の深さを表していると言えるのでしょう。

 

 

さて次回は、ユーモアの無尽蔵、義ん母さんに2回目の自選をお願いしたいと思います。

 

 

ありがとうございました。