文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

セウネ(インターネットウミウシ)

 午後8時。駅前の喧騒を抜けるとしなびた雑居ビルが立ち並ぶ。
 くすんだ看板に書かれた『温泉 セウネ メレセンスパ』の文字を見ると、それだけでホッとする。
 エレベーターに乗り、『10F』のボタンを押す。
 乗り合わせた3人もみな、同じ階を目指しているのか『10F』のランプが点いているのを見ると伸ばしかけていた手を引っ込める。
 沈黙の中、みな無言でドアの上のフロア表示を見つめている。
 10階に着くと、すぐにメレセンスパのドアがある。重たいガラス戸を開け、靴用のロッカーに革靴をしまう。
 カウンターで、受付スタッフがこちらに話しかける前に「フリーのコースで」と言う。
 スタッフも私の答えを承知の上だったのか、すぐにタオルと館内着の入ったビニールのバッグとロッカーキーをカウンターに乗せる。
 バッグとロッカーキーを受け取り、脱衣所へ入る。
 全裸の老人が扇風機の風を全身で受けている。
 7番のロッカーを開け、ネクタイを解く。
 1日の疲労が染み付いた服を一枚一枚剥がすように脱いでいく。
 邪気を封印するつもりでロッカーを閉じ、手首にロッカーキーのゴムバンドを巻く。
 老人と同じく、生まれたままの姿になった私はタオルを片手に持ち、『浴場』と書かれたガラスの引き戸を開ける。
 湯気が一気に立ち込める。かけ湯を浴び、まずはシャワーだ。
 固めのボディタオルでこれでもか、と全身を洗い流す。
 家で使うよりも少し多めの量のシャンプーで頭を洗う。
 タオルで一度身体を拭いたら、いよいよ『セウネ』だ。

 セウネは最近静かなブームとなっている。私もそのブームに乗った1人だ。
 歯医者の待合室で読んでいた雑誌の特集で見つけたのがきっかけだ。
 ここ数年でセウネ人口は特に増えてきており、特に昨年セウネを舞台にした深夜ドラマが放映されて以降は、ガラガラだったこのセウネも入場制限がかかってしまうほどになってしまった。誰も知らない、自分だけの場所。そんなつもりだった。
 セウネに「こうしなければならない」というマナーはない。それぞれの楽しみ方がある。
 私はまず、シャワーを浴び、全身を洗い流す。そして身体を一度拭いてから、入り口の前にある使い捨てのホイッスルを取る(低音と高音で好みは分かれるが私は高音が好きだ)。
 檜でできた扉を開け、いよいよセウネ室に入る。
 中に溜まった湿気に圧倒されつつも、「ああ、帰ってきたな」という気分になる。
 室内の気温は29度。今日は中々じゃないか。
 今日は7人ほど。まぁまぁ混んでるかな、というぐらいだ。
 パイプ椅子に腰掛けてホイッスルをくわえる。
 「鳴らしてもいいですか?」
 私が周囲の人に声をかけると、みな無言で頷く。
 別に断りを入れなくてもいいのだが、一応私は室内に誰かいる時は一言断るようにしている。互いに気持ち良く利用したい、そういう思いがあるのだ。
 鼻から息を吸い込む。今日のアロマはラベンダーだ。
 香りを目一杯楽しんでから勢いよくホイッスルを吹く。
 「ピィィィィ」という音色が室内に響く。我ながら良い音が出たと思う。
 近くにいた同じ歳くらいの中年男性が思わず「おぉ」と呟いていた。
 セウネにいる時間は人それぞれだ。長い人だと20分近くいる。
 私は大体最初は5分、ホイッスルは2回と決めている。
 でも今日は違う。特別な日なのだ。息吹師から直で『息吹』が受けられるのだ。
 息吹のことを本場プォンランデでは『ラウルゥ』と呼ばれている。
 息吹師が行う『ラウルゥ』は『ナーフドゥ―ス』と呼ばれ、高度なテクニックが要求される。
 蛍光ピンクのTシャツに頭巾を被った息吹師が入ってきた。
 手にはアルトリコーダーを持っている。今日はアルトの日なのか。
 息吹師は一礼すると、「では、始めます」と言いアルトリコーダーを吹き始めた。
 それに応じるように我々もホイッスルを鳴らす。
 「はいもっともっと!」と息吹師が1人1人に声をかける。
 ホイッスルの音色がひと段落したところで、いよいよ本番だ。
 息吹師が1人1人に息吹を送るのだ。
 息吹師が中年男性の前に立つと、大きな口を開いてあくびをする。
 中年男性が「あぁ……」と言いながらつられてあくびを始める。
 息吹師は次々と一人一人にあくびを送る。
 いよいよ私の番だ。
 息吹師は口を開くかと思いきや、開かない。
 「どうしたんだ?」と一瞬思ったが、息吹師の口元をじっと見ている時に気付いた。

 噛み殺しているんだ。

 ただあくびをするだけじゃない。あくびをせずにあくびを誘発させるのだ。
 これがプロの息吹師なのだ。プロの技に感激した私は心地よく大きなあくびをした。
 私のあくびを見た息吹師は、つられて「ふぁ〜あ」とあくびをしていた。
 もう一度息吹を受けられる『もう一杯』もあるのだが、私は一度で充分だった。

 セウネ室を出ると、スポンジ風呂だ。
 子供の頃はセウネもスポンジ風呂もなんであるのかわからなかった。
 だけど今はわかる。セウネの真の主役はスポンジ風呂なのだ。
 敷き詰められたスポンジの中に全身が浸かる。少し湿気を含んだしんなりとしたスポンジが心地よい。あまり長く浸かりすぎていると窒息してしまうのでほどほどにしないといけない。
 スポンジ風呂を出ると、休憩用のコックピットがある。
 コックピットとはいっても作り物だ。何かを操縦できるわけではないが、ボタンがたくさん付いているし、ハンドルもある。
 コックピットの椅子に座り、レバーを握りゆっくりと引く。
 目を閉じると、青空の中をどこまでも上昇していく気分になる。
 「あっ、そろそろ来る」そう思った瞬間、心地よい浮遊感と共に頭の中がじんわりとし始めた。
 そして次の瞬間目の前が極彩色に変わる。この瞬間を待っていたんだ!
 セウネとスポンジ風呂とコックピットと繰り返すと得られるこの快感をセウネ好きは『さすらう』という。
 この言葉はまさにぴったりで、私もよく使っている。
 今日は息吹師の息吹も受けられた。ホイッスルも良い音が出た。
 小声で「さすらったー」とつぶやいてしまった。
 思わず周りを見るがここがコックピットであることを思い出し、1人で吹き出してしまった。
 何を焦っているんだか。
 極上のさすらいを得た後は、身体がすっと軽くなる。
 今日も1日がんばった。自分への労いとしてセウネがあるのだ。
 明日もがんばろう。そしてまた、ここに来よう。
 私は爽やかな気持ちでメレセンスパを後にした。