文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

54,55/101(xissa)


酢豚のタマネギが白い

 

 

100円ショップと古本屋と占いの出店くらいしかない、テナント募集の貼り紙だらけのビルに中華料理店があった。どんどん店が立ち退く中でこのレストランだけはずっとあった。特別美味いわけでも安いわけでもないのになくならなかった。

 

このレストランのサービスにプロのピアニストによるピアノ生演奏、というのがあるらしかった。土日だけだが有線ではない音楽を聴きながら中華料理が食べられる、というものだ。私は平日にしかこの店には来ないしピアノも見たこともなかった。どこかにしまっているのだろうか、と思ったが、それ以前にこの店にはそんなものを置くようなスペースがない。白い紙に明朝体で印刷されたピアノ生演奏の、いかにも手づくりな張り紙を料理が来るまでぼんやり眺めていた。

 

土曜日、どうしても気になって中華料理店のピアノのためだけにこの町に来た。ちょっとわくわくして12時少し前に店にはいった。平日よりもお客は少ない。ピアノの音も聞こえなかった。

お好きなお席にどうぞ、と招かれて、壁際の二人用の小さなテーブルに着く。酢豚定食を注文する。いつもとなんら変わりない。しばらくすると酢豚定食が来た。同時にばたばたと一人の女の子も駆け込んできた。店をぐるっと見まわし、私の真向かいの二人用のテーブルに大きな荷物を雑に置いて無言でばりばりケースを剥き始めた。キーボードが出てきた。ケースをテーブルの下に突っ込む。その勢いのまま電源も突っ込む。ごっ、と音を立てて椅子を引き、彼女はキーボードを弾き始めた。

 

酢豚どころではなくなった。突然ピアノ、というかキーボード演奏が始まったのだ。すごい勢いで渚のアデリーヌを奏でている。早い。私は向かいであっけに取られてその姿を見ていた。これか。これがピアノ生演奏か。頭の上でおだんごにした髪が走ってきたせいかゆるんで揺れている。贅肉もなければ筋肉もない、ひょろっとした白い腕。多分大学生とかそれくらい。箸箱と調味料を上手に避けて、ビニールのテーブルクロスの上で彼女はカシオのキーボードを弾いている。あまりじろじろ見てはいけないのでなるべく酢豚に専念する。俊足アデリーヌが駆け抜けた後をぱらぱらと拍手が散らばった。酢豚をやめてわたしも手を叩いた。そして次の曲が始まる。終わる。手を叩く。終わる。手を叩く。おだんごさんは大真面目に弾き続ける。無表情で私は食べる。なんだかいたたまれない。酢豚を飲み込んでは手を叩く。

 

よく見かけるおばさんが食べ終えたトレイをさげて、ごゆっくりどうぞ、と食後のコーヒーを差し出した。これも土日限定のサービスのようだった。だんだんお客が増えてきた。誰もおだんごさんのことを見ない。拍手もなくなった。私もやめた。あんなにもキーボードが鳴っているのにもう誰も気にしてない。コーヒーを食後にするか食事と一緒に持ってきてもらうかでもめている。カニ炒飯のオーダーがはいる。白菜とはるさめのスープ追加で。すみませーん、お冷やください。平日の、いつものこの店だ。おだんごさんも気にしていない。誰も聞いていないラブミーテンダーを黙々と弾いている。コーヒーを飲み干して伝票をつかむ。誰も悪くないのにやたら苦い。


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校舎の湾曲をすべる西陽


ニンニクを炒めている匂いがする。学校から帰ってすぐ友だちの家に遊びに行って、気がつけば夕方になっていた。ここは外だというのに強く匂う。私はその頃ニンニクの匂いが好きではなかった。遊んでいた友だちの顔をあらためて見た。何の反応もなく今までどおりに遊んでいる。この子はこの匂いが日常なんだな、と思った。

ずいぶんと日は傾いていて、私はもう帰らなければと思い始めた。ゲームは佳境でやめるのが惜しかった。友だちもそう思っていたようで、やたらと口数が増え、私を引き留めようとした。

もうあと一回私の番が回ってきたらおしまいにしよう、と考えていたら、ニンニクに覆いかぶさるように香ばしく焦げた醤油の匂いが漂い始めた。めきっと日暮れが濃くなった。友だちがちらっと家の方を見た。帰るね、と私は反射的に言った。

 

なんということもない、小学校の時の思い出だ。理科の実験でリトマス試験紙を舐めた時、ほとんどの生徒が青色だったのに、その友だちは赤かった。私はニンニクのせいだと瞬時に思った。今もニンニクの匂いをかぐたびに、頭の中でリトマス試験紙が赤く変化する。本当にどうしようもない思い出だ。