男は怒っていた。そのように見えた。
鬼気迫る口パクだった。 イヤホンを耳に突っ込み自転車に乗りながら、 言葉なのか怒気なのか覇気なのかを眼前に叩きつけていた。
緩やかな登り坂をものともしていない。
電動自転車だったら余裕の、 しかし小学生だったら立ち漕ぎをするくらいの勾配に座ったまま挑 んでいる。
平日の夕方、風の強い晴れた日だった。 ふくよかな雲がエンドロールのような速さで押し流れている。向かい風が彼の表情をさらに険しく演出していた。
彼はどこへ向かうのだろう。
ちょっとコンビニへ買い出しか、 友人との飲み会か、それとも出勤か。 バイト先に自転車を止めて、 形骸化した挨拶を交わしながらタイムカードを押したりするのだろう。
「おざっす」
「めっちゃ音漏れしてたよイヤホン」
「まじすか。さーせん」
「いつも何聴いてんの」
「いや普通の邦楽っす」
「へぇ。ハンドソープ届いたから補充しといてよ」
「あいっす」
いつものバイトが始まる。いつもの作業をして、 いつもの時間に退勤するだけだ。
冬はどうしても売上が停滞気味だが、 のんびり過ごす時間に時給が発生するのはおいしい。
「今日風強くない?」
「そっすね。チャリ超寒かったっす」
「春来ないねぇ」
「来週から暖かくなるって木原さん言ってましたよ」
「木原さん?そらジローのやつ?」
「そっす」
やはり大して混雑はしない。 会話が続けば続くほど時計の針が早まる。
「そらタローとかいるんかね」
「いないっすよ。でもジローよりガタイよさそうっすよね」
「よく食うんだろうな。長男だし」
「長男関係なくないっすか。まあやっぱ雲とか食うんすかね」
「大盛の雲!いいねぇ。シロップかけたりとかして」
「かき氷のやつで代用できそうっすね」
「そりゃ今は寒そうだな」
「そしたらメイプルシロップとかでどうすか」
「それなら暖かそうだわ」
「ってか雲の温度は変わってないじゃないっすか」
「違うんだよ。俺の中で最適な温度になってるんだよ」
閉店作業も手間取らず、日付の変わる前に退勤することが出来た。 混雑が少なければ清掃もあっさり終わる。 理不尽なクレームを受けることもなかった。
「お疲れ。明日悪いね。武田が急にゼミがあるの忘れてたとか言い出して」
「いや全然。予定無かったんで大丈夫っす」
「じゃあ明日も同じ時間で頼む」
「うっす、おつかれーす」
再生ボタンを押して自転車を漕ぎ出す。 行き帰りでは違うバンドの曲を聴くようにしている。 このタイミングでこの曲を流すと、 Bメロが下り坂に差し掛かるタイミングになる。 下りきってスピードをつけたままサビに入るのが気持ち良いのだ。
Aメロが終わるころに下り坂が見えてきた。
向こうからはサラリーマンが蜃気楼のようにゆらゆらと坂を登って いる。遠目から見ても分かる酔っ払いっぷりだ。 右手にはロング缶を持っているように見え、 終わらない夜を体現していた。 まだ出来上がっていく可能性を秘めている。
転調する。
坂を下る。
自転車を漕ぐ足を止める。
すれ違う瞬間に気付く。サラリーマンは歌っていた。
曲までは流石に判別できなかったが、安堵と恍惚が混ざった表情だった。湯船に浸かってそのまま見上げた天井にため息を吐くときに近い。
つい口の動きが止まり、 憑依型だな、とふと思う。
きっと名曲と呼ばれ愛されて年末ごとに一回だけ聴くようなバラー ドだ。
それを彼は長年愛している。カラオケでは必ず歌い、 結婚式の退場でも流し、どうでもいい飲み会の帰りにこそ、 度数の強いチューハイを片手に口ずさむ。
歳を重ねるごとに歌詞が明確な意味を持ち、 再生するたびに曲と歩んだ日々がフラッシュバックする。 その積み重ねを聴いている。その積み重ねを歌っている。
坂を下り左折して、赤信号で止まる。 ここを渡ればもうすぐアパートが見える。
大通りから一本入ると外灯も少なくなり空がよく見える。 未だに風は強く、 くっきりとした満月に薄い雲がかかっていく過程を見届けた。
あの雲にはどのシロップが合うのだろう。
サビはとっくに過ぎ去っていた。
最適な温度、と思い出して曲を変える。
イントロが流れる。
歌い出す。