文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

52,53/101(xissa)

 

行ったきり帰って来やしない

 

 

電車は4両なのに駅のホームは前2両分しかない小さな駅で降りた。やたがらすのおいちゃんのご帰還だ。のんびりとした昼間の駅は春の日差しを遮ってひんやりしている。暗いところから見る町は白く霞んで見えた。

 

どこまで歩いてもひなびた町が続いていた。駅前の商店街も、八百屋、魚屋、郵便局、荒物屋、ほとんどが生活に結びついた店だった。しかも半分以上閉まっている。古いテーラーの看板。見たこともないフォントだ。場違いな銀行。知らない殺虫剤のホーロー看板。突然味噌屋。軒の低い、くすんだ色の町を通り過ぎて、ここから坂になる。それにしても自由な道だ。ここは何叉路なんだ。

 

やたがらすのおいちゃんは、私の家の近所で居酒屋をやっていた。歌を詠み、書を嗜み、店じゅうに短冊や扇面を貼っていた。墨で黒々と書かれた文字はあまりに個性的で私には読めなかった。気難しく見た目もこわく、なのに店はわりと繁盛していたように思う。奥さんがいた間は。

おいちゃんに生気を吸われてしまったようなひっそりとした奥さんは4年前に亡くなった。奥さんが亡くなってしばらく店は閉まっていたが、気がついたらのれんが出ていた。ただ、無愛想なおいちゃんの店は来る人が限られるようになり、そうこうしているうちにおいちゃん自身が病気になった。私の父が身寄りのないおいちゃんを心配して、私は代理でちょくちょく見舞いに行った。

 

見舞いに行っても別に何を話すでもない。タオルを交換したり洗濯物を預かったり足りないものを買い出しに行ったり、そんなとこだ。おいちゃんはすまんな、と言ったきり寝たふりをしていた。私も別にそれでよかった。退院できないまま正月を迎えた。病院からあの筆文字で年賀状が届いた。

 

正月が明け、松飾りが取れたとたんおいちゃんが亡くなった。どういうわけか父に第一報が届き、私は父と一緒に病院に行った。行きの車の中で、父がおいちゃんのことを話してくれた。おいちゃんは兵庫の田舎町の商家の出だということ。あまりに風流人が過ぎて家を追い出されたこと。田舎の親族は死んだり疎遠のままだったり、もう帰るところはないこと。後始末を頼むと頼まれたこと。

おいちゃんはずっとその生まれた町に帰りたがっていたそうだ。私は聞いたことがなかったが、父には町のことを細々と語っていたらしい。店に貼ってあった短冊はほとんどがおいちゃんの望郷の歌だったと父は言った。

 

小さな葬儀が終わっておいちゃんは骨になった。奥さんと一緒に故郷の菩提寺に納めてほしい、というのがおいちゃんの最後の願いだった。一緒に行くはずだった父の都合がつかなくなり、私がひとりで出向くことになった。

 

コンクリートに砂利の浮き出たぼろぼろした道を登っていく。どこかで時間が止まったようなこじんまりした町は、古いがどこも手入れが行き届いてきれいだ。吹く風は冷たかったが背中にあたる陽はぽかぽかとあたたかい。次第に商店は少なくなり、民家が増える。立派な塀を伝って歩く。雑草でさえもつやつやと色濃くきれいだ。しばらくすると家が途切れて視界がひらけた。眼下に大きな川が見える。きらきらと光っていた。赤い煙突も見える。電車で近くを通った。あれは醤油工場だ。かっちりとレンガを組み上げた立派な建物だ。立ち止まってしばらく見とれた。静かで美しい。ここは川と山に守られた、小さな独立国みたいだった。

 

帰りたかったろうな、と思う。思いながら登っていく。おいちゃんもこの道、通っただろう。さっき通った商店街も知っていただろう。複雑極まりなく枝分かれした道を、子供の頃すいすい走り回っていたかもしれない。十八で町を出たまま一度も戻らなかったそうだ。おいちゃんがこの町を出たのはどんな日だったのだろう。最後に見たのはどんな光景だったんだろうか。

 

ご連絡いただいておりました、と住職は私を招き入れてくれた。私の父より少し若いくらいの人で、おいちゃんのことはまったく知らないようだった。私が横浜から来たと知るとしきりに羨ましがった。喉仏のはいった小さな壺をふたつお願いして寺を後にした。日当たりのいい門の前の古い梅の木が、白い花をたくさん咲かせていた。

 

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結末が思い出せない

 

 

工場が仕事をやめたので空気が澄んだ。皿倉山が見える。新年を迎えた時には思ってもなかったような春が来た。ミモザが咲きこぶしが咲き、桜も咲こうとしている。手入れの行き届いた公園には誰もいない。人がいなくても花は咲く。消毒液の匂いが混ざった風が、遠くから吹いてくる。

 

昔がどうだったのかよく知らない。町にはゴーグルで顔のわからない人たちがそぞろ歩いている。オーガフードはもう手にはいらなくなって久しい。外でのおしゃべりも政府に禁じられている。私たちはタブレットで話す。ゴーグルの奥の眼を探るように見る。警らのドローンが散った花弁を巻き上げて離陸する。

 

木蓮が咲いたら雨が降る。白い花はすぐに痛んでしまう。恨んでもしかたない。母はそう言って笑った。冷たい雨は降り続く。海岸線はギザギザのまま濡れている。名ばかりの春がまたひとつ過ぎる。

 

目の前にいる女の子のアイラインがすごく太くて我に返った。電車のドアが開き人が渦をまく。4月の渋谷だ。降りる。