文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

道しるべ(元祖いがそ君)

だいたい決まっている。そんなに細かい事では無くて大きな枠組みでの話ですが、だいたい決まっていると思うのです。

 

例えば、大体の赤ちゃんは可愛い。人間でも動物でも可愛い。しかも、声を発しない、動かない植物だとしても、芽を出して自分の殻を被ってる新芽なんて、まぁ、可愛いでしょう。大体の赤ちゃんは可愛い。

そして、身体の各器官も、大体、目があって鼻があって耳があって口がある。大体、顔と言われる中に収まってる。まぁ、大体そうでしょう。

他の例をあげるとするなら、どこの国へ行ったって、殺人はダメ、絶対にダメという普遍的な人間の良心の働き。基本的に心と体が健康なら大体同じ感覚でしょう。

 

身体にくっついてるものとか、感じ方は大体おなじなのに、それとは全く逆で、大体決まってないもの、このパワーは凄い、と、40歳過ぎた頃から、よく思うのです。

 

それは、人の好み。

 

まさに、好み、においては個性を出していいでしょう、というか好みが個性を出すのでしょう。そして好みは細かい。好みは、細かいからこそ他人は理解も出来ないし、自分にしかわからない、時には自分もはっきりした理由は分からないけども、感覚が求めるという好みもある。

 

だから「だって好きなんだもん」って言われたら間違いなく最強で、それ言われたら、勝てない。そして、そう言われたらそれを許すべき、何故なら、人の「好きなんだもん」を許せないなら、君の「好きなんだもん」も同時に死ぬ事になるんだ。それでもいいんだね?もし、許さないなら、その瞬間、まるで楽器が一つの独りよがりオーケストラの指揮者の誕生だ。

 

だから、他人が、いくらマヨネーズをかけようが「だって好きなんだもん」靴下の匂いを嗅いでいようが「だって好きなんだもん」これで終わり。洗車機のあの、動いてないのに動いてるあの感覚が好きなんだから、花粉なんか関係ない、車の塗装が剥がれたって毎日洗車機に車を突っ込めばいい。「だって好きなんだもん」

 

ところが、時々、人生を重ねるほどに好みをふるいにかける様な質問が飛び、あの頃の様に「だって好きなんだもん」と言えない場面に遭遇してしまう。伝家の宝刀「だって好きなんだもん」を気兼ねなく使う時の清々しさったら無いのに。

 

「あのさぁ‥つゆだくってさ好き?」

 

これがブルーワーカーでひしめく朝の牛丼屋で投げかけられてご覧なさい、好みの渦がたちまち理性を飲み込むでしょう。ラブじゃないライクなんだと。

 

でも、質問してきたのは、つゆだく嫌いな、社長の妻なんだ。「好きです。」この一言が言えなかった。中学から、変わってないな俺。

 

本当は、ぼかぁ、好きだなぁ。つゆだく。牛丼に限らず、肉じゃがですら、肉じゃが本体より、あの煮込んだ汁をご飯にかけて食べるのが好きだ。

 

何かに何かが染みていく感覚が好きなのかも知れない。だから、お弁当に赤い梅干しが入っていたら、まず、何をするかといえば、梅干しの引越しです。

 

梅干しを別の白いご飯ゾーンに、お引越しさせて、染み込ませる。そして、本体が居なくなって今の今まで、「ここに梅干しありましたよ」って、梅干しの赤が染みてる白米を食べるの好き。そんで、中盤でお引越しをした梅干しをずらしてみたりしてね、染み込み具合を確認して、染み込みが足りないと「なんだよ、まだ染みてないじゃんか!期待させんなよ!」とか言ってね。仕方ないから、卵焼きにちょっかい出すの。その卵焼きはなぜか隣の焼きそばの紅生姜に、もう、染められていて、そこに人間関係を重ねてみたりしてね。あの子、元気かなぁ。

 

風呂に入浴剤を入れる。じっくり浸かる。入浴剤ですらそうなのだから天然の温泉ならなおの事だ。温泉にも、じっくり浸かる。成分が皮膚に染み込むように。温泉からあがる時も洗い流したりなんかしない。どこをどんな風に洗ったかもわからない見ず知らずの人と同じ温泉に浸かるなんて、よく考えたら不思議なことだが、これも染み込ませる為には仕方のない事だ。染み込ませたい、という欲望の方が強い。そうか、赤の他人と一緒に風呂入れるのに、なんで、あの時、あんなにとんがってたんだろ。素直になれば良かった。

 

だから、次はこう言おう

 

「つゆだくですか?僕は好きですよ。」ベチャベチャしてて嫌じゃない?「だって好きなんだもん」今度、一緒に食べない?

 

あの時、あの子にそう言えたなら、もう少し一緒にいられたかも知れない。それは誰にもわからない、知る事もできない、でも、一つわかるとするならば、それが今の道しるべなんだ。