文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

人魚を釣り上げる(puzzzle)

 今までに感じたことのない強い引きに、俺は立ち上がって大きく竿をしならせた。こんな小さな街を縫う用水路に生息するとは思えない某が大きく水面を揺らす。竿を放さなければこっちが引きずり込まれそうだ。釣りキチ魂はそれを許さない。某を一度泳がせ、再び竿を固定する。糸が切れる。竿が折れる。弱気になれば一平爺さんの言葉が思い起こされる。竿の善し悪しはその竿を持つ人の腕によって決まる。竿は単なる腕の延長に過ぎない。俺の爺さんではない。三平の爺さんだ。竿を折るなんて、まして手放すなんてことはあり得ない。某は再び深く潜る。川底に到達したと思われたところで、俺は一気に力を込めた。観念したのか急に軽くなる。水面が山のように盛り上がり、潜水艦から発射された弾道ミサイルさながら大きく飛びあがった。それは思いがけず異形。顎を突き上げた全裸の人間が引きずり出されたかと思えば、腰から先は身体と不釣り合いな尾鰭を貧相にはやした魚体であった。半魚人。いや、人魚か。
 俺の驚愕と某の呻き声が共鳴する。
 爺さんよ許せ。俺は竿を放り投げていた。飛び上がった人魚は放物線を描いて身体を傾ける。思わず目を合わせれば、そいつは白目を剥いていた。格闘の末に悶絶したか。だらしなく両手を広げたまま落下をはじめ、水面に腹打ち。大きく水しぶきがあがった。咄嗟に顔を背けたが全身に水を浴びた。
 再び水面へ顔を向けると人魚は顔を水中に突っ込んだまま浮き上がっている。死んだか?半身とはいえ殺人を犯してしまったか?お袋の顔が浮かぶ。俺は反射的に川の中へと駆け込んでいった。人魚の肩を掴み、仰向けに身体を回して、首の下に腕を回す。
「大丈夫か?」ようやく声がでた。
 男から応答はない。そう、男だった。雄と言うべきか、人魚は口ひげを生やし、下半身は鱗で覆われているが、上半身の体毛は野性味溢れる。
 軽く肩を叩いてみる。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
 先週、職場で救急救命の講習を受けたばかりだった。軽く腕を持ち上げ、顎を上げさせて気道を確保する。続いて、周辺に誰かがいたらAEDを持ってきてくださいと頼もう。遠巻きにヒトが集まってきた。頼んだところでAEDがありそうなビルディングなど見あたらない。そもそも頼む勇気がでない。この状況がどうにも、恥ずかしい。
 ひとまず下唇に突き刺さった釣り針を抜いてやりたい。俺はポケットだらけのベストから小鋏を取り出し糸を切った。そして、慣れた手つきで針をは外す。その予定だった。唇は人間だ。鯉にかかった針を外すようにはいかない。苦戦していると男は目を覚ました。
「イテイテテ」
 男の黒目が俺をとらえた。俺は何とか針を外して苦笑い。まな板の上の鯉か。男は俺の腕に頭を乗せたまま逃げる様子もない。
「何をしてくれるんだ」
 バリトン域のいい男声だった。
「すみません。まさか釣れるとは」
「食う気か?」
 俺は大きく首を振る。
「飼うのか?」
 もう一度首を振り、俺は答える。
「キャッチ・アンド・リリースが常なので」
「そうか」
 男は答えると俺の腕を離れた。そして、五回ほどクロールで水を掻いてから、川底へと潜っていった。あの尾鰭では仕方がない。