文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

海へ (紀野珍)

 波の音のほかは、何も聞こえない。
 少女はひとり、砂浜に佇んでいた。引きも切らず岸に打ち寄せる波を見、海風と、波が波を巻き込む音を浴びている。海のほうを向いている限り、人影は視界に入らない。
 海はもっと静かな場所と思っていた。それとも、今日が特別なのだろうか。別段、荒れている様子でもないのに、こんなにも波音が轟き続けるのは異様な気がする。海原に蓋するようにかかる厚い雲が音を反響させているのかもしれない。
 砂を踏みしめる足にぐっと力を入れる。十月半ば、午前の海辺は、薄手のブラウスだと少し肌寒かった。
 海と縁のない人生を送っていると気付いたのは、たしか小四の夏だ。叔父一家を自宅に迎えた夕餉の席で、こんがりと焼けた同学年の従兄弟に「海行った?」と問われた。「ううん」と即答し、その夏だけでなく、一度も海へ連れて行ってもらったことのない少女は、初めて「どうしてだろう」と考えた。海が遠いわけではない。車で三十分も走れば海岸通りに出られるところに暮らしている。なのに、海へ行こうという話が持ち上がったこともない。少女が求めれば簡単に実現したのかもしれないが、彼女にそんな願望はなかったし、両親もそれを承知しているようだった。
 夏休み明け、クラスメートにその話をした。「たぶん」と前置きして、まだ海で遊んだことがないと打ち明けると、友人たちは揃って目を丸くし、「ほんと?」「どういうこと?」と疑問をぶつけてきた。予想外に反応が大きくて少女はひるんだが、突飛な告白を真に受けてくれているからだと思うとうれしかった。「なんで?」の合唱には、「分かんない、たまたまそうだったの」と応えた。めいめいが少女に対し、海や海水浴の美点をアピールし始めたのはおかしかった。「じゃあ今度みんなで行こうよ」と誰かが言い、全員が賛同したが、その提案は叶わずじまいとなった。
 そうして海の存在を意識したあとも、少女に海への憧れみたいなものは生じなかったし、あえて海を避けようという気持ちも湧かなかった。結果、海と縁のない人生が続いた。少女はこれまで、東北も北海道も、四国も九州も訪れたことがない。それと同じだと考えた。海がどんなものかは、テレビや本で見て知っている。
 少女はいま、砂浜にいて、海を眺めている。
 二時間ほどまえ、自室で身支度をしている最中、ふと、自分がどこへ行こうとしているのか分からなくなった。困惑しつつスマホを開くと、とある海水浴場までのルートが表示された。だから、家を出てバスに乗り、ここにやって来た。
 頭に何かが当たる。掌を差し出してたしかめる。雨だ。急がなきゃ、と思う。何を、と自問する間もなく、身体が動いていた。
 立ったまま裸足になり、脱いだスニーカーとソックスを砂の上に置いて、波打ち際へ歩を進める。水気を捉えた足の裏に、感電したような痛みが走る。少女は大きく息を吸って止め、スカートの裾が濡れるのもかまわず、ずかずかと海に分け入った。
 膝頭が水に潜ったあたりで少女は立ち止まる。紅潮した顔を上げ、水平線を端から端まで見遣り、満ち足りた表情でぱっと息を吐いた——その瞬間、少女は針で突かれた水風船のように輪郭を失い、水の塊となってどうと崩れた。
 波が乱れ、すぐに均される。
 ほどなく、少女の身に着けていたものがぽつりぽつりと海面に現れ、それらは付かず離れず、波間をたゆたい続けた。