文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

48,49/101(xissa)

 

シャボン玉みたいに触ると消えるもの

 

 

鏡に映らなくなった、と彼女が言う。縁側に腰掛けて、熟れすぎた柿をスプーンですくって食べながら。僕には彼女が見える。あたりまえだ。そこにいる。

今年の五月くらいから調子が悪かったようだ。あまり人に言うことじゃないと思って黙ってたけど、と彼女は続ける。朝起きてさ、歯みがこうと思って洗面台に立つでしょ、そしたら鏡に映ってないの。前には何度かまばたきしたら見えたんだけど、最近ね、まばたきしても見えないし、ほかの場所の鏡でも見えなくなっちゃって、と弱々しく笑う。

しかもね、写真にも写らないんだよ。それが一番困る。みんなで写メ撮ったら私のとこだけ写ってなくてね、その時はその子のスマホのせいにしたんだけど、もうおっかなくて。

ちょっと試してもいい?と僕はスマホを向ける。すでに画面に彼女はいない。でしょ?みたいな顔で、肉眼で見る彼女は眉を下げている。

一番困ったことはね、とスマホの中の透明な彼女が話す。化粧?と僕が尋ねる。化粧もそうだけど、あのね、自分の顔、忘れそうなんだよね。わりと深刻。

柿は割れた風船みたいに皮だけになった。甘い匂いが夕焼けの色に滲んでいる。僕はスマホをしまう。彼女の絵を描こうかと考えている。

 

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そのように生まれたものだから

 

 

会社に行ったっていつも仕事などない。社員の誰かが外出の時、駐禁の場所に停める車にただ乗っておまわりさん避けになるのが主たる業務だった。1日ほとんど喋らない。移動中もずっと黙ってラジオを聞いている。やることがないと時間が立たないので古いカレンダーを切ってメモ帳を作ったりした。余計なことはするなと怒られた。机について前を向いているのが仕事だった。

 

ある日珍しいことに、ちょっとやってほしいことがある、と社員の人に呼ばれた。外なんだけど、と手招きされる。建物の裏手に出ると、倉庫の前に突然大きな酒樽があった。鏡割りのあとなのだろう、割れた木の板が雑に載せられている。この酒を瓶に詰め替えてもらいたいんだけど、と空の一升瓶が入った箱と柄杓を渡された。酒樽にはかなりの酒が残っていた。木の樽に入っている酒はどれもそうなのだろうか、木屑や虫や、いろいろなものが浮いたり沈んだりしている。寒かったので一旦ロッカーへ戻って紺色の防寒ジャンパーを着てきた。ジョウゴをおねがいすると、今ないから、と薄いプラスチックの板をくるりと丸めてガムテープで留めて簡易ジョウゴを作ってくれた。

何のお祝いに使ったのかもわからない。だが間違いなくたいへんに景気の良いところから来た酒が建設現場の裏口でのんびりと昼の光にあたっている。へんなジャンパーを着た薄給のバイトが赤と金の飾りのついたプラスチックの柄杓で小春日和の酒を汲み出す。虫も避けない。木屑も入れる。簡易ジョウゴはだばだば漏れた。私はひたすら酒をすくった。

 

酒は瓶に7本と少しあった。酒精に当てられた私はその日早退した。