文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

くたばっちまえ(小夜子)

故郷くにに帰ることにしたんだ」

穏やかな空気とほんの少しの気怠さを抱えたカフェの一席で、彼はそう言ってわたしの紅茶を揺らした。
元々、覚悟していた一言だった。彼はわたしの反応を窺うように、せわしなく指先を泳がせている。

「そう。故郷に帰ったら、もちろん?」
「……結婚するんだ」
「ご両親が選んだ娘と?」

そう尋ねると、彼は黙って目を瞑りコーヒーを口にする。図星を指されると目を瞑るのは、付き合って三ヶ月目にして気がついた彼のクセだ。

「本当に、すまない」
「いいのよ。どのみちご両親がわたしなんかを気に入る筈なかったんだわ」
「僕がもう少し、両親を説得できていれば」
「生まれも育ちも全く違う田舎娘なんか、祐介さんには相応しくないのよ。脚だってほら、二本きりだし」

椅子から投げ出されている彼の十三本目の脚をつま先でコツンと軽く蹴る。そんなこと、と彼は呟いて蹴られた脚をくるくると丸めた。

「祐介さんの御国じゃ、ふつうの方は三十本がせいぜいでしょう。でも祐介さんの家系は代々八十本くらいある方ばかりだわ。二本きりのわたしじゃダメよ、指先だって、ほら」

そう言ってわたしが先程から泳いでいる彼の指先を空中でつまんでみせると、慌てたようにしゅるしゅると他の指先が彼の手元に戻っていく。

「脚の数なんて関係ないよ。僕はキミの二本脚も、首元の鱗も、三つある口も好きなんだ」
「でもご両親が選んだ娘は、六十本脚のある娘だわ。祐介さんとのあいだに子供が産まれたら、きっと百本脚間違いなしよ」

素敵だわ。呟いて、わたしは煙草に火をつけた。彼のご両親が、わたしのことを「脚足らず」と呼んで大層嫌っていることは、ずっと前から気付いていた。
二つ目の口に咥えた煙草の煙はチラチラと瞬いてなびき、彼の飲んでいるコーヒーの煙と混ざって消える。

「責任とって、なんてこと言わないから。わたしのことは忘れて、幸せになって頂戴」
「すまない……。ありがとう」

彼は瞳をうるつかせながら、振り切るように七十四本目の脚を五十二本目の脚に絡ませた。


春先の日暮れはまだ少し肌寒い。店を出て首元の鱗を手のひらで覆っていると、彼はゆっくりとわたしに向き直った。

「”♯∈‰◇Å仝マ゜」
「いまのは、どういう?」
「幸せになってね、って言ったんだ」

彼の故郷の言葉を、ずっと前から勉強していたことを、彼は知らない。知らないままでいい。
わたしは彼の二本目の腕を取り、そっと微笑んで、

「縺上◆縺ー縺」縺。縺セ縺」
「それは?」
「幸せになってね、って言ったのよ」

彼は顔を綻ばせ、目元を一本目の指先で拭いながら、何度もなんどもわたしを振り返り消えていった。彼はそうだ、そういう奴だ、わたしの故郷の言葉なんか知る由もない。
わたしは二十八本目の指に嵌っていた指輪を外し、生えたばかりの鱗を剥がしてそれを包み、赤紫色に溶けたドブ川に向かって大きく振りかぶった。