文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

46,47/101(xissa)


空耳たぐりよせる

 

 

入校者名簿に名前を書き、目的のところに「見学」と記入する。ふたたび訪れるとは思いもしなかった大学に立っていた。うっすら雨が降っていた。在学していた時だって雨くらい降っただろうが、なぜが夏のイメージが強い。暑くて白くて眩しい。いつも顔をしかめて歩いていた。

だらだらした坂道を霧のような雨に湿りながら歩く。ビラが上から上から貼り散らかされて鱗みたいな壁になっていた集会室が驚くほど小綺麗になっていた。毎週土曜の映画はまだ続いているようだ。今週末はBack to the Future。やたら古い映画をかけるのも変わってない。何を見張っているのかわからないおじさんが入り口にいたカフェテリアもふつうのレストランのようになっている。うっとおしい空をものともしない明るい顔の学生が出たり入ったりしている。

 

ここで音楽の勉強をしていた。昔の話だ。ピアノを弾いていた。まったく野心がないまま留学し、ものにならないまま帰国した。防音の個室が並ぶピアノ棟は学内の一番隅にある。一度お調子者のクラスメイトが夏期留学の学生をピアノ棟に招待して狭い部屋にみっしり人を詰め込んだことがあった。ピアノの下にまで人がいた。年齢も国籍もばらばらな学生たちが全員で歌えるのが「もろびとこぞりて」だと気付いて、真夏のどまんなかでばかみたいに歌っていた。今は12月だがあの歌はない。荒く舗装された道は見知っているのにひどくよそよそしい。

口だけ笑顔にして受付にビジターの名札を見せた。ピアノ棟は入ってしまうとすっかり外と遮断されて異空間になる。窓もない。どこからか、誰かが練習している音がうっすら聞こえる。受付の人の目を避けるようにして廊下を曲がり、空室の扉を開いてみた。みちみち音を立てながら開いた先には古いピアノとぎりぎりの空間がある。卒業するときに記念に撮った写真のままだった。

何の用もない場所にわざわざやって来て半笑いみたいな顔で廊下に突っ立っている。懐かしくも、かなしくもなかった。遠くピアノは鳴り続けていたが、何の曲だかもわからずじまいだった。

 

朝が来たらまたへらへらと帰国する。たいがいのことは、見るだけで終わる。

 

 

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踊らぬ阿呆が凝視している

 

 

時間を問わずサラリーマンが行き交うビジネス街の地下道だ。壁も床もつるりと黒く、あたたかい色の照明に鈍く光っている。両側にケーキ屋や花屋やレストランがあり、ビルに直結していて天井は高い。壁の上の方には窓があり、1日のうちのほんの少しの時間だが天気が良ければ外の光が入る。斜めに切られたガラスにあたり、虹がかかる。かかるではないな。虹が落ちるのだ。四角く切り取られた強い色のプリズムが、急ぎ足で通過していく人の頭や肩にばらばら落ちる。昼前の、ほんの少しの間。誰も振り返らない。おごそかな光に染まりながら人々は途切れることなく流れてゆく。

 

町が壊れて人が死に絶えて、廃墟になったこの地下道に虹が落ちていたらどんなにきれいだろうと思う。四角い虹を手ですくってみる。光源を仰ぎ見ると赤い色が刺さった。目が焼け、回廊に一瞬、ひとりだけになる。フレアスカートの女がふわりと虹の間を渡っていった。