文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

あの賭け(にかしど)

『ああ、退屈なんてのはこの世でもっとも、くだらない感情だ』

 

こんなことを考えていた男の頭上の拡がりで一羽の蝶が気まぐれに飛行しているのを、退屈な男の眼は収めた。紋白蝶がいる。男はここにおいて、頭の中で即席の賭けを執り行った。この若者は、自身が持て余している果てしなくて、そして救いようのない退屈を誠に憎んでいた。何か人生さえをも変えてしまうような大きな出来事が我が身に起こることを期待した。 紋白蝶が舞う。        

「十秒数えるうちに、もしも蝶があの標識の高さを飛び越えたら、なんかとんでも無いことが起こるはずだ」

蝶はゆらりくらりと漂い、そこからさらに舞い上がり、ちょうど標識の高さまで飛んでいくと、今度はその高さに浮いたまま、地に対して平行移動し、正三角形をなす交通標識の頂点の淵で羽を休ませた。直後、さらに高いところに飛んで行った。

 

この間、およそ八秒である。                  

 

 次の日、男は生まれて初めての恋をした。相手は三歳年下の女の子で、会ったその日に交際が始まった。四年の交際期間を経たのち、二人は結婚をし、二人の子供を授かった。一人目は男の子、二人目は女の子だった。二人目の子供が生まれてから二十六年後に長男に子供が生まれた。初孫だった。長女は生涯、結婚することがなかった。初孫の誕生から十五年後に、男は死んだ。 ちょうど七十年歳であった。このありきたりの人生の中で、男が、あの賭けのことを思い出したことが二度あった。一度目は、男が初めて恋に落ちたとき。二度目は、男が死ぬ直前だった。

 

死に際で男はこんなことを思った。

『まったく、あの賭けの報酬は遅すぎやしないか』