文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

同じ素材でできた別の町(井沢)

町内にある「びよういん」の椅子に座る。椅子の上には子供の座高を調整するために大きな消しゴムのような革張りの台が乗せられていた。これ、嫌だな。こどもみたい。いつになったら皆と同じように普通に椅子に座れるのだろう。ただ椅子に座るだけのことなのに。
ケープをかけられ、頭のタオルを解くと濡れた髪がぱらりと落ちてきた。

この店で私の髪型は必ずマッシュルームカットに整えられる。髪型の名前は知らなかったが、この店で切ってもらって家に帰ると「あらきれいなマッシュルームカットになったわね」と皆に言われるから、これはマッシュルームカットなのだろう。そしてその指定は事前に母がしていたのだろう。私は髪が伸びた実感もどうしたいという意思もなく「髪を切りに行きなさい」と言われた日にびよういんに行き、白い革張りの台が設置された椅子に座ればいいのだ。

髪を切っている間、鏡に映る左右反転した町内を見ていた。家からあの角を左に曲がってこのびよういんに来たけど、鏡の中に見えている角から家に帰ろうと思うと右ではなく左に曲がることになる。本来左に曲がると学校に行ってしまうはずだけど、鏡の中だと家から遠ざかろうとしないと家に帰れない。さらに進行方向から想定する場所の向かい側にある。いつも通りに帰れない。むずかしい。同じ素材でできた別の町。でも家までの道はなんとなく分かったから、どうだ、ちょっと鏡側の学校まで行ってみよう。ここからは鏡には映っていない町並みをかなり進むことにになるから、頭の中でしっかりと思い浮かべて道を見失わないようにしないといけない。脳内で歩く左右逆の道を記憶して、これから出てくる左右逆の道を想像する。記憶と想像を同時にするのはなかなか高次な技だ。なかなか頭の中の鏡地図はできない。いつもどおり左に曲がってしまい、駄菓子屋が見えてきた。この道は学校から離れてしまう、一旦交差点まで戻ろう。迷子になりかけては戻る。友だちの家も左右逆。信号も普段凝視したことあるわけじゃないけど赤が右じゃないはず。そういえば誰にも会わない。

「はい、おわりましたよ」
はっと我に返る。鏡の中の私は見事なマッシュルームカットになっていた。まだちゃんと鏡側の学校に辿り着けていない。そんな心残りを美容師さんは知る由もない。いつもより長く鏡を見ていることに美容師さんが少し気付いた。あ、違うんです、別に仕上がりに不服があるわけではないです、艶で天使の輪もできててナイスだと思います。誤解させないように、白い革張りの台で高くなった椅子から慎重に降りる。
「ありがとうございました」
重いガラスのドアを押すと、湿った夕方の風が押し寄せた。
いつものように右に曲がって家に帰る。