文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

34,35/101(xissa)

 

あめ玉も夕焼けもすぐ溶けてしまう


春節祭の長崎で亀山社中の坂道をひとりで日暮れに歩いていた。

とろとろ日暮れた坂道は気づけば色を失ってあたりは誰もいなかった。

空気が次第に冷えてきてあとは暗くなるばかり、

引き返そうかと思っていたら先にひとりの子供が見えた。

浮き上がるように色白のちいさな子供が黙々と

暮れた坂道を掃いていた。

自分の背丈ほどもある箒につかまるようにして、

誰に言いつけられたのか

汚れの見えない坂道で大きくそれをふるっていた。

私を認めてこちらを向いて箒をかかえて動きを止めた。

きれいな眼をした少年だった。

一文字に口をひきしめて子供は家に入っていった。

あたりはたちまち静かになった。

子供が清めた坂道を私はゆっくり上がっていった。

なつかしい夜が満ちてくる。黙って歩く。薄い月が懸かっている。



 

******************

 

失くす以前に持ってなかった


張先でぽっかり時間が空いた。コインロッカーに荷物を預け、駅の西口から伸びる壁を伝って歩いた。突然壁に取っ手があった。引くと開く。開いた先には美しい模様の刻まれたガラスの間仕切りがあってその向こうに光が透けて見える。おそるおそる覗くと、年老いたバーテンダーがひとり、きっちりと蝶ネクタイをつけた姿でカウンターの向こうにいた。

 

老バーテンダーは笑顔で私を招き入れた。先客は一人。カウンターの一番奥に座っていた。彼は私の前に立つと、何をお作りしましょうか、とおだやかに尋ねた。メニューはない。今日は暑いですからね、まずはさっぱりとジントニックはいかがでしょう?

私が頷くと彼は流れるようにカクテルを作り始めた。透き通ったタンブラーに透き通った氷を入れ瑞々しいライムを切り銀のマドラーでひと混ぜ。かりかりと炭酸の弾ける音を立てながらジントニックが私の前にすべるように出てきた。

喉が渇いていたことを差し引いてもこれまで飲んだ中で一番だと思えるジントニックだった。ため息と一緒に思わずおいしいと言葉がもれた。お気に召してよかったです、と彼はそっと笑った。

静かなバーだった。音楽も流れていない。新しい店ではなさそうだがタバコや水の匂いさえしない。老バーテンダーも不思議な気配のなさをまとった人だった。

ジントニックは地味なカクテルですけどね、私は一番好きなんですよ、とふいに声がした。打ち明け話をするような気さくさで彼が目の前にいた。

ライムは6分の1だけ使います。ケチくさいみたいですけどそれ以上はおいしくなかったので。トニックウォーターはちょっと特別です。キニーネが入ったのを使ってるんです。

おだやかな笑顔だが彼はこちらの何もかもを見透かすような目をしていた。彼の方は何も見えないままに私だけ素通しになっているようで少しきまりが悪い気がしたが、この人の前で取り繕ったらそっちの方が恥ずかしいように思った。多分彼はものすごくたくさんの人を見てきて、息をするように目の前の人がどういう人なのかを見てしまうのだろう。そしてそれは髪が長いとか背が高いとかと同じレベルの情報でしかないのだ。善悪もない。美醜もない。ただ素通しにされた私が自分を恥じているだけだ。

彼はこちらが話しかければ風のように答えた。身体を壊して故郷に戻ってきたのだと話していた。ええ、ずっとこの仕事でした。この店は3年前からやってます。死ぬ前に自分の店を持つっていうのが叶ったんですよ。もう一杯おかわりを貰って私は店を後にした。またいらしてください、と老バーテンダーは笑顔で名刺を渡してくれた。富岡慎一、と静かな名前がそこにあった。

 

今年になってまたその町に行く機会があった。壁の引き手はまだあった。そっと開けると音楽が聞こえてきた。扉を開けたまま立ちすくんでいると、若い男がこちらに顔を出して、すみません、今満席で、と告げた。

飲まなくても良かった。あの、富岡さんはいらっしゃいますか、と尋ねると、富岡ですか?そういう者はいませんけど、と不思議そうな口ぶりで答えた。

 

何を思えばいいのだろう。来た道を味気なく引き返す。老バーテンダーはあのカクテルのように透き通ってしまい、たった一度店を訪れただけの客は喪失感さえ抱かせてはもらえない。