文芸ヌー

生活に負担の少ないブンガクを。 文芸ヌー

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空瓶美しく酔っている


父親がいなかったことで何か問題があったかと考えてみても、あんまり思いつかない。物心ついた時には母しかいなかったし、そんなもんだと思っていた。運動会に応援がないのも重箱のお弁当がないのも気が楽でよかった。父親参観に母は黒のパンツスーツにオールバックで現れたりした。長身の母にそのスタイルはとても似合っていて「クッソかっこいいセリちゃんのおかあさん」としてその名を馳せていた。

ボシカテイをあまり意識しないままに私は暮らしていた。たまにお情けみたいな配給をもらったりあからさまにカウントされなかったりすることもあったが、え?ああ、と思うだけだった。面白いように悪意をすり抜けながら私は学校を卒業し、大人になった。

 

父が誰か、ということを考えなかったわけではない。母に尋ねたこともあった。母は、そうねえ、誰だったらいいと思う?と逆に質問してきた。ついかっこいい歌手や俳優の名前を挙げたらそのまま盛り上がってしまって聞きそびれた。なんとなくそれから訊いてない。成人してから取った戸籍も父親欄は空白だった。別によかった。よかったというか無理して聞き出すことはないと思っていた。こういう私がいるということはそこになんらかの行き交いがあったということだろうがそれは母のものだ。調べたあげくにそれが原因で現状がおかしなことになるのはごめんだった。知らなくても私は生きてるしわりと楽しい。そんなことをあれこれ考えているともう面倒くさくなったのだ。余計なことはしない。ということにしていた。

 

私に結婚話が持ち上がって彼が挨拶に来たあと、母はひとりごとのように、ああ、セリにおとうさんがいるねえ、と言った。ほら、結婚式って、おとうさんと娘が一緒に歩くとこあるじゃない、あれ、見たいもんねえ。

おとうさん。一瞬びくっとしたがすぐに私は爆笑した。いやあそんな派手なことしないから大丈夫だよ、なんならおかあさんと歩いたっていいよ、あの宝塚チックなスーツ、また着てよ、と笑いが止まらないまま母を見たら、思いのほか母は真剣な顔をしていた。おかあさん?と私は不安になって声をかけた。おかあさんお願いだからおとなしくしててよ。

 

そんな話をすっかり忘れた頃、仕事から帰ると家に見たことのないおじさんがいた日があった。あ、セリ帰ってきた、と母はにこにことビールを運んできた。着替えてきて。もうすぐお寿司来るから。

着替えて居間に行くと、いつも母が座っている場所でしなびたナスみたいなおじさんがしょんぼりビールを飲んでいた。怪訝な顔で、こんばんわ、と挨拶すると、気弱そうな笑顔を浮かべて、こんばんわ、と返してくれた。

母が届いた寿司を運んできた。セリ、座って。この人、上田さん。いきなりでごめんだけど私この人と結婚するね。

はぁ?と凄みそうになった口を全力で押さえ込んだ。仕事上がりのくたびれ果てた脳みそがぎしぎし動き出して記憶を遡る。あれか。あれだ。叫び出しそうだ。ああ短気を起こしちゃいけない。とりあえず挨拶だ。唸るようにはじめましてと呟く。顔があげられなかった。何を言っていいのかも分からなくて私は知らないおじさんの前で黙って寿司を食べた。白身の魚をほとんど全部ひとりで食べた。ちらちらと母と上田さんを見た。上田さんはビール一杯で真っ赤になって、母はひとりでしゃべり倒していた。

 

おかあさん、本気なの? 上田さんが帰ったあとテーブルを片付けながら母の背中に訊いた。あの人、私のほんとのおとうさんじゃ、ないよね? 母は、違うよ、と振り向きもせずに答えた。会社の人よ。少し残った一升瓶を透かして見て母は答えた。おかあさんが誰が好きでも構わないけどさ、私のためとかだったらやめてよね、私、おとうさんがほしいと思ったことなんかないし、おかあさんがいたらいいし、今さら体裁とかほんとにどうでもいいし。彼んちもうちがどういう家か知ってるし。私はテーブルを力まかせにごしごし拭いた。あのおやじ、何をこぼしたんだ。固まって取れやしない。あの人ね、見た目しょぼいけどいい人なのよ。母は人の話を聞いていない。あ、もちろんセリは今の名字のままよ、多分このままだと思うけど、もし入籍するとしても私はあんたのあとにするから。入籍、と聞いたとたん、動けなくなった。洗い物を始めた母が他人のように見えた。

それから上田さんは何度かうちに来た。私は帰りが遅かったし帰る頃には飲みに付き合わせた母がすっかり潰してしまっていたのでほとんどまともに話したことがなかった。上田さんはいつも頭皮まで真っ赤になって一眠りしてしばらくするとおもむろに起き出し、玄関で敬礼して帰っていった。

 

母の心がどうにも変わりそうにないので破談覚悟で彼の家族にその話をした。大笑いされたあと、セリちゃんのおかあさんならしょうがない、と言われた。おかあさん、セリちゃんがいなくなってもさびしくならなくてよかったじゃない、と彼のお母さんが言った。あ、と思った。それもそうだ。

 

当日、母と上田さんは一緒に親族控室にいた。母はウルトラ宝塚スーツでめかしこみ、上田さんは鳩でも出しそうな燕尾服を着込んで座っていた。これまでありがとうございました、それでは行ってきます、と挨拶すると上田さんはうつむいてさっと母の後ろに隠れた。あんたには言ってない、と思ったけれど黙っていた。上田さんは私と目を合わせないように母の後ろで息を殺している。母はまったく気にしてない風にそれじゃあそろそろ先に行っとくね、と私のほっぺたを触って出て行った。

 

扉が開かれると赤い絨毯がまっすぐ敷いてあった。これが母が見たかったあれか。お父様と歩く、というのは辞退させてもらった。何しろ二言三言しか話してないまったく他人のおっさんだ。そして今、私は「花嫁のご両親席」の前にさしかかっている。母の笑顔が見える。いつも、いつもいつも笑っていた母。かっこいい、大好きなおかあさん。その笑顔が若干苦笑っぽい。ふと母の隣に目をやると上田さんが泣いていた。うつむいて拳で顔をぬぐっていた。こらえた嗚咽がもれている。苦笑いのまま母の口が、ごめんねえ、と動いた。

 

式の間じゅう上田さんは何かにつけて泣いていた。会場の誰よりも泣いていた。どうやったらこの他人だらけの状況でそこまで感激できるのかわからなかったし、まず何の涙なのかがわからなかったけど、その小さな、むせび泣くおじさんとそれを慰める母を見ているとなんとなく気持ちがあたたかになった。

うん。おかあさん、その人たぶんすごくいい人。

ふと母がこっちを向いた。目があった母は微笑んで、小さく親指を上げた。