行き交う人を見ると雨があがっているようだったので、傘をたたんで角を曲がる。ジュンヤくんのおうちがある、車一台が通るのがやっとの狭い道。そこにお母さんがいた。駆け寄って背中を叩く。
「ああびっくりした。なによテッペイ。いま帰り?」
「うん」
「いつもより早いじゃない」
「だって、今日は塾ないし」
「え、お休みなの? そういうのは前もって教えなさいよ」
「先週言ったじゃん」
「うそお。全然覚えてない」
「ぜったい言った。——どっか行ってきたの?」
「うん。ちょっと郵便局までね」
「雨、やんでよかったね」
「ね。——よし、テッペイがいるんなら、買い物と晩ごはんの支度、手伝ってもらおうかな」
「うえー」
「徹平が食べたいもの作ってあげるから」
「ほんと? じゃあカレー!」
はいはい、とお母さんは笑顔で応える。機嫌がよさそうだ。
ふたりで話しながらだと、家まではあっという間だった。
夜中、不意に目が醒める。
顔を天井に向け、暗闇をじっと見つめたまま耳をすますと、お父さんの怒鳴り声が聞こえた。
——まただ。お父さんとお母さんが口論しているのだ。
ふたりはしょっちゅうケンカする。僕が寝たあと、いまくらいの時間に。そのたびにこうして起こされる。
二階までは届かないと思っているのか、聞かれてもかまわないと考えているのか。
それとも、言い争っているときは、僕のことなんか忘れちゃってるのか。
お父さんとお母さんは、ずっとこんな調子だ。僕の前ではふつうにしてるけど、それは本当じゃない。無理してるのがまる分かりで、僕もぎこちない態度になってしまう。夜のケンカのことを知ってからは、余計。
また、お父さんが怒鳴り、お母さんが叫ぶように言い返す。これがしばらく続く。
頭まで布団にもぐりこむ。
——いやだいやだいやだ。
ちっとも眠くなかったけど、ぎゅっと目をつむった。
夢の中で、僕はひとりぼっちだった。
そこはまっくらで、自分が着ているパジャマの柄くらいしか見えない。
怖くはなかったけど、動くとあぶないと思ったので、じっと立っていた。
「ぼうや、願いごとがあるのかい?」
突然声がして驚いた。どこから聞こえたか分からず、きょろきょろする。おじいちゃんみたいな、すごく歳を取った声だった。
「さあ、願いごとがあるなら言ってごらん」
「……願いごと?」
「そうだ。ぼうやの願いごとをひとつだけ叶えてやろう」
——神様だ。きっとそうだ。夏休みに図書室から借りた本で、そういうのを読んだ。
願いごとはすぐ頭に浮かんだ。
「……なんでもいいの?」
「うむ。なんでもいい」
僕のお願い。鼻から息を吸い、お腹に力を入れて言葉を吐き出す。
「お父さんとお母さんが仲よくなってほしい!」
神様は高いところにいる。だから大声で言った。
「ふむ」少し間を置いて、神様が訊ねる。「いまより、かね」
いまより? どういうことだろう。よく分からなかったけど、答えた。
「うん。いまより」
「——よかろう」
パチン。
耳の近くで、硬い木の枝が折れたような音、じゃなければ、手を力いっぱい打つような音がした。
そして神様の声。
「ぼうやの願いは叶えられた。もう行きなさい」
もう一度、パチンと音が鳴ったかと思うと、目の前で光が爆発して、僕はまぶしさに目を閉じた。
朝、ダイニングキッチンで僕を迎えたふたりは、昨日までとなにも変わってないように見えた。目を合わせず、口もきかず、お母さんは洗い物をし、お父さんはスマホを片手にトーストをかじっていた。
「カレーあっためてあるから食べなさい」
「今日はずっと雨だってさ」
ふたりとも、僕にしか話しかけない。
神様のことは、夢とは思えないくらいはっきり覚えてた。
学校から帰ると、どういうわけかお父さんがもう家にいて、お母さんの姿がなかった。お母さんはどこへ行ったのか、お父さんも知らないみたいだった。
お母さんはその日から、家に戻っていない。
お母さんが消えてひと月くらいたったころ、ジュンヤくんのお父さんも家を出たまま帰っていないという話を、学校で耳にした。