文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

消えた! (紀野珍)

「わ。こいつ手挙げてる」
「まじか」
「世界的なマジシャンに消されるんだぞ。そんな貴重な体験、みすみす逃す手はねえだろ。ほら、おまえらも手挙げろ」
「俺はいいわ。ここから見て楽しむんで充分」
「右に同じ。——げっ。指名された」
「まじか」
「よっしゃ。ちょっくら行ってくるわ」
「すげえなおまえ。あとでタネ教えてくれ」
「わはははは。ほんとに行きやがった。なんなの、あの男がたまに見せる積極性」
「目立ちたがり屋ってわけじゃなく、純粋に好奇心で動いてるっぽいんだよな」
「こういうのって、サクラが用意されてるんだと思ってた」
「なあ。じつはあいつがサクラとか?」
「今日はずっといっしょにいたじゃん。打ち合わせする時間なんかないよ」
「何日もまえにコンタクト受けてたとか?」
「ないない」
「ないよな」
「見ろ。手振ってる。アホだ」
「ぜんぜん緊張してねえ。付き合い長いけど、謎な男だよな」
「英語で自己紹介してる。わはははは。おもしれー」
「ダイガクつったないま。それは日本語だろうばーか」
「わはははは」
「お。始まったぞ」
「…………」
「…………」
「あのゴージャスなアシスタントの近くに行けるのは、ちょっとうらやましい」
「分かる」
「失敗しねえかな」
「んふふふふ」
「すっごい大がかりなマジックじゃん」
「本公演のメインイベントだからな。このマジシャンの代名詞的イリュージョン」
「え? 知ってんの?」
「YouTubeで見た」
「なに予習してんだよ」
「一応な。わはははは。いっちょまえに演技っぽいことしてる」
「わはははは。いいからさっさと中に入れよ。あんまやりすぎると怒られるぞ」
「見てる俺らがいたたまれないわ。——お、準備完了ですよ」
「いよいよだな」
「…………」
「…………」
「おおおおおおお!」
「消えたあ! すげえ! どうなってんだ!」
「おおおおおおお!」
「落ち着け!」
「わけ分かんねー。タネとか仕掛けとか、そういう問題じゃなくね?」
「魔法の類だろあれ。人間が一瞬で蒸発したとしか思えねえ。物理法則に反してる!」
「カンッペキに消えたもんな」
「跡形もなくな」
「鳥肌立ったわー。ワールドクラスのエンタテインメントに観客も総立ちだ」
「…………」
「…………」
「ものすごい拍手。——あ、いまのが最後か」
「だな。——もうちょっと人がハケるの待とうぜ」
「うむ」
「どうだったよ」
「超おもしろかった。超アガった。全部すばらしかった。いいもんだな、マジックショー。正直舐めてた」
「そこまで喜んでもらえたら、誘った甲斐があったわ。おまえはぜったい好きだと思ってな」
「一発でハマったね」
「わはははは。じゃあ今後もイベント情報チェックしないとな。——よし、そろそろ出るか」
「はいよ。——ん?」
「どうした」
「いや、俺の隣の人、どこ行ったんだろ。荷物と上着が置きっぱなしなんだけど」
「あらほんとだ。トイレじゃね?」
「だったら持っていくだろ、これも」
「たしかに。あと帰るだけだもんな」
「まあいいか。そのうち戻ってくるだろうし、忘れ物ならスタッフに任せよう」
「で、このあとどうする?」
「どうすんべ。カラオケとか考えてた気がするけど、野郎ふたりでカラオケってのもなあ」
「きついな」
「うーん……とりあえずメシだメシ。腹減った」
「おう。俺トイレ行くから、ロビー出たあたりで待っててくれ」
「了解。——あ、嘘。俺もトイレ」