文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

呼吸 (紀野珍)

「池端?」
「おう、高見じゃん。ひさしぶりー」

 平日の昼下がり。近隣住民には抜け道としても利用される住宅街の公園で、かつて漫才コンビを組んでいたふたりの男が再会した。
 晩秋の日差しは強く、遊具から遊具へと駆け回る子どもたちは、深い穴のように濃い影を足もとに落としている。まだ青々とした葉を茂らせる大きな楓、その木陰で談笑するのは、彼らの母親だろう。

「ひさしぶりだなあ。いつ以来よ」
「とりあえず今年になって会うのは初めてかな」
「そういや、電話もメールもしてねえな。まだこのへんにいんの?」
「そそ。越してない」
「俺も。近くに住んでんのに、会わねえもんだなあ」
「そっちはほら、生活時間が不規則だから」
「まあな。で、おまえはいま何やってんの?」
「この格好見れば分かるだろー」

 池端は気を付けの姿勢をとる。右手にはくたびれたビジネスバッグを提げている。

「なんだよ、柄にもなくスーツなんか着やがって。てことは会社勤めだよな。もしかして、うちの事務所に拾われた?」
「ブブー」
「なら、制作会社とか?」
「惜しい!」
「あ、テレビ局か?」
「残念! ちょっと遠ざかった」
「んー……だめだ、手がかりがなさすぎる。降参。答えは?」
「無職!」
「分かんねえよ!」高見は手の甲で池端の胸を叩く。「ひとっつも惜しくもねえし、遠ざかってもねえよ!」

 刹那、ふたりの男は見つめ合う。どちらも照れ笑いを噛み殺したような表情を浮かべている。

「ていうか無職かよ。ちゃんと食えてんの?」
「そこんとこは大丈夫。ちゃーんと、一日四食いただいております」
「一食多いよ」
「あ、おやつは別ね」
「プータローが一人前におやつなんか食ってんじゃねーよ」
「いやいやいや高見さん、毎食二人前、しっかり食べてますよ」
「一人前ってそういう意味じゃねえよ! ていうか働いてねえんだったら、ちっとは節約しろ!」
「まあまあ。むかしから言うじゃない、働かざる者たらふく食え、って」
「聞いたことねえよ、そんなニート応援格言。都合よく言い換えてんじゃねえ!」

 池端が顔を寄せる。

「ガフッ。どう? おたがい積もる話もあることだし、メシでも行く?」
「くっさ! てめえ餃子食いたてホヤホヤじゃねえか! 気分わっる!」
「胃袋のほう、まだ若干の余裕がございますが」
「うるせえよ。俺も昼食ったばっかだから遠慮しとくよ」
「そうかあ。じゃあ喫茶店は?」
「喫茶店? あんま時間ないんだけどな、まあコーヒー一杯くらいなら付き合ってやんよ」

 池端は前を向いたまま、小さく三歩後退する。鞄を地面に落とす。

「カランコローン。ガチャッ。へぇ、ここが喫茶店かあ」

 その台詞を聞いて、高見は得心する。こらえきれず、口角が持ち上がる。斜め掛けにしていたショルダーバッグを慌てておろす。

「いまどきそんな古典的な入りもねえだろうよ。——いらっしゃいませ。おひとりですか?」
「これ言うと、だいたい、え、マジで? その顔で? って驚かれるんですけど、結婚してるんすよ」
「そういうことじゃねえし、興味ねえよ。指輪も見せなくていいよ。てめえは何人でウチに来たかって訊いてんの!」
「ああ、ああ、そっちね。そっちの意味でなら、アローンであり、ロンリーです」
「だいぶめんどくせえのが来たな……おひとりですね。空いているお席にどうぞ」
「はいどうもどうも。どっこいしょっと。じつはここ、初めて来たんですよ。落ち着いた雰囲気の、すてきなお店ですねー」
「ありがとうございます。ご注文はどうされますか?」
「えーと、いつもの」
「初めてつったじゃねえかよ! おまえのご贔屓なんぞ知らねえよ!」
「そうでした。それじゃあねえ……この〈本日のコーヒー〉ってのは何ですか?」
「そちら、わたくしが世界各地から取り寄せたビーンズを使った日替わりのドリップコーヒーでして、半額でお代わりできるお得なメニューとなっております」
「ああ、いいですねえ。じゃあ、レモンティーひとつ。ホットで」
「コーヒーじゃねえのかよ! なんでコーヒーのこと聞いた!」
「僕、コーヒー飲めないんですよ。体質的に。夜しか寝られなくなっちゃうんで」
「夜寝られりゃ十分だよ! ——はい、レモンティーホット、お待たせしました」
「ほほー、いい香り! あ、灰皿ってありますか?」
「すみませんお客さま、当店は終日全面禁煙となっておりまして」
「そうですか。いや、いいんです。僕もともと煙草吸わないんで」
「またかよ! なら聞くんじゃねえ!」

 高見のよく通る声が耳に留まったのだろう、遊具を離れた女児ふたりが手を繋いで横並びになり、好奇と警戒が入り交じった顔で元コンビの掛け合いを眺めている。

「ただの確認です。ここ、けっこう新しいお店ですよね」
「はい、去年オープンしたばかりで、そろそろ一年になります」
「たった一年で、すっかり大きくなって……ねえ?」
「ねえ、じゃねえよ。ヨソんちの子どもみたいに言うな。おまえ初めて来たんだろうが」
「ときにご主人、このお店はおひとりでキリモミされてるんですか?」
「航空ショーか。切り盛りな。——はい、わたくしひとりでやっております。ただ、おかげさまで、常連のお客さまが少しずつ増えて忙しくなってきて、わたくしの年齢も年齢だしで、アルバイトを雇おうと考えているんですよ」
「猫の毛を刈りたいほど忙しいってやつだ」
「手を借りたい、な。こちとらトリマーじゃねえんだから。——ちょうど今日面接があるんですけどね。お客さまはこの近くにお勤めで?」
「お恥ずかしい話、いまは透明、いや、無職なんですよ」
「ボケが分かりにくいよ。——そうでしたか。いまはどこも景気が悪くて大変ですねえ」
「絶賛職探し中で、僕も今日これから面接なんですけどね」
「あら、そうなんですか。うまくいくといいですねえ。ちなみに、差し支えなければ、以前はどのようなお仕事を?」
「お仕事っていうほど上等なもんじゃないですけど、芸人をしてました」
「おやおや。芸人さんですか」
「レーニンじゃないですよ」
「分かってるわ! そんな聞き間違いしねえよ! だいたい、以前はレーニンをやってました、ってなんだよ! ——芸人というと、お笑いですか?」
「そうです。占いで漫才コンビを」
「は? 占いでお笑いの道に進まれたので?」
「違った。売れない漫才コンビを」
「だから分かりにくいって。てめえわざと間違えてるだろ。——それで、足を洗われたんですね」
「はい。洗ったわりには、いまも足は臭いですけどね」
「やかましいわ。——まあねえ、芸能の世界で売れるのは大変だって聞きますもんねえ」
「けっきょく、僕に才能がなくて足を引っ張ったって感じですねー。相方は天才なんで、申し訳ないことしちゃったなって」

 高見は一瞬、言葉に詰まる。

「……相方さんは、いま何を?」
「きっと……いまもどこかで、僕のことを見守ってるんじゃないですかね」
「故人にすんな」掌で池端の頭を軽く叩く。「いいツラで空を見上げるんじゃねえ」
「相方は業界に残りました。いまや引く手あまたの構成作家ですよ」
「……そうですか。お客さんも、志半ばで夢破れたとはいえ、厳しい芸人生活を経験して得たものはあるはずですから、第二の人生に活かしましょう」
「ええ。そう信じてがんばります。なにせ、奥さんと子どもを食わせなきゃいけないし、風俗通いもやめられませんからね」
「おまえ最低だな! 無職の分際で大飯食らいだわ、風俗行くわで!」
「あ、もうこんな時間か。そろそろ向かわないと。おあいそー」
「卑猥なジェスチャーすんな! おあいそのときはこう! あと、ふつう喫茶店でそういうことはしねえ! ——お代はけっこうですよ。こうしてお近付きになれたのも何かの縁、わたくしからの餞別です」
「よし、計算どおり」
「え? いまガッツポーズされました?」
「いえいえ何でもありません。ありがとうございます。それじゃお言葉に甘えて。また来ますね」
「はいはい、お待ちしていますよ。就職活動、がんばってくださいね」
「ごちそうさまでしたー。ガチャッ。カランコロン」
「……変わっているけど、楽しいお客さんだった。さすが元芸人さんだね」
「ガチャッ。カランコロン。失礼しまーす」
「おや、お客さま、お忘れ物ですか?」
「あのー、本日面接の約束をしている者ですが」
「おまえかい! いいかげんにしろ!」
「どうも」と池端が言い、
「ありがとうございましたー」とふたりで声を揃え、見えないサンパチマイクを避けるように深々とお辞儀をする。

 顔を上げると、ふたりは鞄を拾い、小走りで左右に分かれる。高見は上手へ、池端は下手へ。
 駆けながら、高見は奥歯を噛みしめていた。鼻の奥の奥がつんと痛い。ペースを緩め、立ち止まり、一拍おいて振り返る。ずんずん歩くスーツの後ろ姿が滲んで見えた。その背筋は反らんばかりに伸びていて、足取りは力強い。なんだよ相方——高見は胸の内でつっこむ。舞台の上でもそれくらい堂々としてくれりゃよかったのに。
 高見は笑う。バッグをしっかりと肩に掛け、池端とは反対方向へ歩きだす。
 パチパチパチと、小さな手が打ち鳴らす拍手に送られて、ふたりの男は公園をあとにする。