文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

夏風 (紀野珍)

 背中を撫でられた感触で目が覚める。

 顔を上げると、一面の白。その白は波打っていた。
 ——ああ、カーテンか。
 窓から吹き込む風を受けて、ヨットの帆のようにカーテンが大きく膨らんでいた。
 ここは教室。自分の席。寝起きの頭を駆動し、状況を把握する。どうやら、机に突っ伏して居眠り——いや、完全に寝入っていたらしい。
 風圧を失って萎んだカーテンが頭に巻き付く。上着の首を抜くようにそれを外すと、奧に二本の足が見えた。
 誰かが前のほうの机に腰掛けて、足をぶらぶらさせている。膝頭がこちらを向いている。
 彼女は——そう、須崎さんだ。目が合うと、須崎さんはぱくぱくと口を動かした。
 そこで初めて、耳に薄く流れ込むビートとメロディが意識された。机の中からスマートフォンを取り出して音楽を止め、イヤホンを外す——と同時に、須崎さんの声が届く。
「おはよう」
「——おはよう。なんか、すごい寝ちゃってた」
「うん。ぐっすりだったねえ」うれしそうに言う。秘密を知っちゃった、そんな表情だ。
 うう、みたいな呻きが洩れる。頬が火照るのを感じて、咄嗟に俯く。
 ころころころと、木琴をばちで撫でるような笑い声。あれ、須崎さんってこんなふうに笑う子だったっけ。
「ずっと観察してた?」視線を上げて問う。
「ずっとじゃないけど。本を読みながら、たまーに」須崎さんは膝に載せていた文庫本を持ち上げる。
「くそ。醜態をさらした」
「いえいえ。かわいらしい、安らかな寝顔でしたよ」
 胸元まで垂れる髪を耳の後ろにかき上げる仕草を見て気付く。ふだんはポニーテールで結わえている髪をおろしているのだ。ぼくが知っている彼女と印象が違うのは、そのせいか。
「——いま何時?」イヤホンのコードをまとめながら訊ねる。
 須崎さんはこちらを見たまま、黒板の上に掛かっている時計を指差す。
「うわあ、五時半すぎてるじゃん。起こしてよ。——ていうか、須崎さんもこんな時間まで何してるのさ」
「ねえ」文庫本を開き、ぱらぱらとページをめくる。「読み終わったら帰るつもりだったんだけど、おもしろいもの見付けちゃったからさあ」
「だから起こしてよ。見守ってないで」
 また、カーテンが勢いよく膨らみ、視界を塞ぐ。立って窓を閉め、錠をおろす。ほかの窓はすべて閉まっていて、油蝉の声が少し遠くなる。日はだいぶ傾いていた。
 席に戻って、ふと、違和感を覚える。反射的に口に出た。「みんなは?」
「さあ。帰ったんじゃない?」待ちかまえていたように須崎さんは返す。
「——にしても、人の気配がなさすぎない?」
 そうなのだ。下校時間を過ぎているとはいえ、こうも人の気配がないのは奇妙ではないか。この時間なら、教師も、部活で残っている連中もいそうなものだ。窓を閉めたときに見下ろした校庭にも人の姿はなかった。出入口の扉は前も後ろも開け放たれているのに、廊下から物音もない。聞こえるのは、必死で相手を求める蝉の声と、ときおり通る車の走行音だけ。
「べつにいいじゃん」須崎さんの軽い口調。
「いい? 何が?」
「いまこの建物にいるのが、きみとわたしのふたりきりでも」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて言う。太股の下に手を敷き、両足を交互にばたつかせている。悪くない、と思った。
「べつにいい……のかなあ」
「いい、いい」言って、とん、と机からおりる。「さて、帰るかな」
「あ、うん」
 須崎さんはその場に留まり、こちらを見つめる。「わたしのこと、覚えてくれたよね? スザキミカです。どうぞよろしく」と、頭を下げる。
「ええと、こちらこそ、よろしく」噴き出してしまう。「なにこのやり取り」
 彼女は笑わずに続ける。「またこんな状況になったらさ、今度はきみの話を聞かせてよ」
「ぼくの話?」
「そう。たとえば……スサタチリイナカカエマテアドヨセケホヒマモコクバニカスナのこととか」
 驚いた。ぼくの「過去」を知っていることに、ではない。あの件に関わった記者や専門家以外で、「育ての親」の名前をそらで言える人間に出会ったのは初めてだった。
「ああ……全然かまわないけど、そんなにおもしろい話じゃないよ」
「いいの。きみのことを知りたいんだから」須崎さんは芝居がかった動作でぼくに人差し指を突き付ける。照れ隠しに見えた——というのは、うぬぼれが過ぎるだろうか。
「分かった。そのうちね」
「やった。居残りした甲斐があった。約束だよ」
 鞄を手に取り、背中を見せた須崎さんに声を掛ける。「——でも、須崎さん」
「なに?」やはり予期していたように振り返る。
「スサタチリイナカカエマテアドフヨセケホヒマモコクバニカスナ」
「え?」
「フ、が抜けてた」
 須崎さんは一瞬眉をひそめたあと、腕を組み、口の中でぶつぶつと「あの名前」をくり返す。
「嘘だあ。ちゃんと言ったよ」
「じゃあ、もう一回言ってみよう」
「スサタチリ、イナカカエマテ、アドフヨセケホ、ヒマモコク、バニカスナ」
「うん、完璧」ひと息で言えてないけど、という言葉は飲み込んだ。
「でしょ?」クラッカーが弾けるように笑み、須崎さんは掌を上げる。「ばいばい。また明日」
「また明日」
 長い髪とスカートの裾をなびかせ、須崎さんは教室を出ていく。

 ふう、と息を吐く。右手の中にイヤホンが畳まれているのに気付き、ズボンのポケットに入れる。立ち上がってカーテンを寄せ、窓辺に近付く。
 やはり校庭には誰もいない。けど、もう少ししたら、須崎さんが現れる。彼女はきっと、校庭の真ん中でこちらを振り仰ぐ。
 そのときは手を振ってやろう。
 窓を開けた。