文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

五月十七日、木曜日 (紀野珍)

 約束の時間からちょうど三十分遅れで店に着いた。
 予約している旨を店員に告げると、こちらへどうぞと奥の個室に案内される。週末の居酒屋は、仕事終わりの勤め人や喧しい学生らでごった返していた。
 四人掛けの座敷席に澤野と千穂がいた。
「おう、お疲れ。さきに始めてるぜ」澤野はジョッキを掲げて言い、そのまま口へ運ぶ。
「悪い。待たせた」靴を脱いで座敷にあがり、ハンカチで首元の汗を押さえつつ澤野の正面、千穂の隣に腰をおろす。「ほんと暑いな、今年の夏は」
「日が落ちてもこれだもんな。しっかり飲まなきゃ干からびちまう」おしぼりで口元を拭って澤野は笑い、マヨネーズをたっぷり付けた唐揚げをひとつ頬張る。「食いもんも適当に頼んだ。全部来て足りなかったら追加で注文しろ」
「サンキュー」胸元をつまんでTシャツの内側に冷気を入れながら、ドリンクメニューを開く。
「お疲れさま。今日はありがとう」
 千穂に声をかけられ、反射的に顔を向ける。千穂は、屋外の暑熱も店内の喧噪もどこ吹く風といった淡い笑みを浮かべていた。「すっごい汗かいてんじゃん」
 片方の口角を上げてそれに返事をし、メニューに目を戻す。そこへ店員がやって来、お冷とお通し、おしぼりをテーブルに並べていく。店員が体を起こしたところで手を挙げる。
「あ、注文いいですか。ウーロン茶ひとつ」
「ついでに、生中おかわり」と澤野。
「わたしも生中」
 眉根を寄せ、千穂の背中を睨む。
 黒縁眼鏡に丸刈りの店員は、「かしこまりました」とまるで板に付いていない台詞を残して去る。
「なんだ、禁酒中か?」澤野が訊く。
「いや、帰ってからする仕事があってね」
「いい歳こいて宿題かよ」嘲りの口調で澤野が応じる。「そういやおまえ、何やってんだっけ。出版社勤務?」
「そう。編集者」お通しのなめ茸が載った冷奴を箸で割り、口に入れる。
「零細出版社で旅行ガイド作ってるんだよね」
 千穂の補足は聞こえないふりをする。
「編集者ってのが何をするのか知らんが、忙しいみたいだな」
「そうでもない。会社でさぼってるから宿題ができるだけ」
 澤野は大笑する。この男が中ジョッキ一杯のビールで酔うはずもないが、アルコールが入ってだいぶ気分はよくなっているらしい。
「月末になるとそれなりにバタバタするんだけどな。そっちはどうよ」
「まあ、ぼちぼちだな。暇じゃあないが、死ぬほど忙しいってわけでもない。そこそこ休めてもいるし」
 澤野は自動車整備士で、この近くの中古車販売店に勤めている。
「毎日こんな天気じゃ大変だろう。気持ち悪いくらい焼けてるぞ」
「ん? ああ。これは仕事とあんま関係ない。レジャー焼けだ、レジャー焼け」
 ポロシャツの白とのコントラストも甚だしい、赤銅色の腕をさすりさすり澤野は言う。
「レジャーねえ」千穂がぼそりとこぼす。平板な声音に棘があった。
「おまえはいつまでも若いな」間を埋めるためだけに、空疎な言葉を吐く。
「三十過ぎたばっかで何言ってんだ、同級生」澤野は色の抜けた髪を無造作にかき上げる。「俺は落ち着けねえだけだよ」
 
 
「ところで、話ってのはなんだ?」
 ほぼ半年ぶりの対面ではあったが、飲み食いしつつの近況報告もすぐに話題が尽き、三本目の煙草に火を付けたのち澤野が切り出した。「何か俺に用があって呼んだんだろ?」
「——ああ」しばらく無言でいた千穂に目を遣ると、気配を感じたのか相手もこちらを向き、強張った顔付きでこくんと頷く。
 ウーロン茶で喉を湿らせて空咳をし、口を開く。
「五月十七日、おまえが何をしたか知りたくてな」
「五月十七日?」聞き返した澤野の表情がにわかに曇る。
「そう。三ヶ月前だ」
「木曜日」と千穂。
「そんな前のこと覚えてねえよ」吐き捨てるように言い、澤野はジョッキの中身を呷る。
「まさか。忘れちゃいないだろう。その日、おまえは休みを取った。キャンプ場に行ったんだ。〈K〉市の」
「…………」
「思い出したか?」
「……なんでてめえがそんなこと知ってるんだよ」澤野の双眸がかすかに怒気をはらむ。
「もっといろいろ知ってるぜ。キャンプ場に行ったのはおまえひとりじゃない。佐々木って女もいっしょだった」
 驚いたのだろう。澤野が目を剝いたのを見て、これから伝える内容はすべて真実なのだと確信した。
「佐々木は俺もよく行く駅前のカフェの店員だ。そして、俺の妹の親友だった」
 視界の端で千穂をうかがう。千穂は背筋を伸ばし、じっと澤野を見つめていた。
「おまえは店で佐々木に声を掛けて口説いた。首尾よく、三日後の約束を取り付ける。おまえの十八番のキャンプデートだ」
「…………」
「おまえが佐々木を連れてキャンプに行ったのが五月十七日。——その日から佐々木は自宅に帰っていない」
 
 
——澤野が人を殺したの。
 
 一週間前、俺のところへ現れるなりそう訴えた、千穂の切迫した形相が不意に脳裏をよぎる。罪を償わせたいから力を貸してほしい、と続けた。
 
 
 鞄から手帳を取り出し、隅を折ったページを開く。
「五月十七日、何があったか。事実と違うところがあったら指摘してくれよ」
 澤野はテーブルに両肘を突き、面を伏せた。
 
 
「五月十七日、木曜日。午後一時、おまえは駅前で佐々木を拾い、〈R〉インターチェンジで高速に乗った。〈M〉パーキングエリアで昼食をとり、〈O〉で高速をおりて〈K〉市内に入り、キャンプ場に着いたのが午後四時過ぎ。——ああそうだ、その前に〈I〉ってスーパーで食材を調達したのも付け加えておこうか。何を買っていくら払ったかまで把握しているが、いまは割愛する。
 そこは穴場で平日ということもあり、ほかにキャンパーはひとりもいなかった。おまえは手際よくテントを組み立て、彼女にレクチャーしながらメシを作り、メシを食ったあとは椅子を並べて酒を飲み始めた。佐々木が好きな赤ワインもしっかり用意していた。
 午後八時ころから二時間ほど飲み続け、たがいにほどよく酔いが回ったところでテントに入った。はじめから一泊する予定で、翌日、佐々木は休み、おまえは仕事があったが、朝早く戻れば出勤時間には余裕で間に合う。
 テントで横になってすぐ、おまえは彼女に手を出した。しかし拒絶された。相手もその気だろうと踏んでいたおまえは逆上し、力尽くでどうにかしようとした。彼女が叫び出したので、咄嗟に手近にあったタオルで口をふさいだ。その結果——」
 
「もういい。やめてくれ」
 手帳から正面に座る男に視線を移す。うつむいたまま澤野が言う。
「……見付かったのか?」
「佐々木がか? いや、まだだろう」
 澤野が顔を起こす。
「だったら、なんで——」
「聞いたんだ。一部始終を知る人間に」
 口を開いたが何も発せず、澤野はふたたび首を垂れる。
「おまえの犯罪が露見していないのは、ただたんに運がよかっただけだ。現場に第三者がいなかったのもたまたまなら、佐々木がおまえのことを周囲に漏らしていなかったのもたまたま。べつに示し合わせたわけじゃない。いまのところ、ふたりの繋がりを掴んでいるのは俺だけだ」
 最後のひとことは余計だった。しかし、澤野は齟齬に気付かない。
「佐々木がどこにいるかも見当は付いている」
 これは嘘だ。彼女の行方を知るのは、目の前の男だけ——。
「……どうしろっていうんだ」
 落ちた、と思った。喉の渇きが意識され、グラスに半分ほど残っていたウーロン茶を一気に干す。
「自首するんだ。これから警察に行って、洗いざらい打ち明けろ」
 澤野の頭がわずかに持ち上がる。直後、ふううううう、という長い溜息。
「明日まで待ってやる。自首を薦めるのは、友人としての恩情だ」
「……分かった……分かったよ」絞り出すように言い、澤野はゆっくりと腰を浮かせた。
 
 
「今日はありがとう」
 澤野がテーブルの上に残していった一万円札をぼんやり眺めていた俺は、千穂の声で我に返る。
「ああ。務めは果たしたぜ」
「澤野、ちゃんと出頭するかな」
「大丈夫だろ。キャンプのことを知ってる人間が出てきた時点で、やつは詰みだ。観念したさ」
「逃げたらどうする?」
「そのときはプロに任せりゃいい。——不安なら、跡を付けてこいよ」
 座敷の前を通りかかった客が、いぶかしげな面持ちでこちらを一瞥する。
 千穂は首を振る。
「ううん、いい。もう終わったんだよね」
 あの日、何が起こったのか。澤野が何をしたのか。千穂に説明され、今日、その答え合わせをして完全に納得できたはずなのに、それでもなお、確認せずにはいられなかった。
「——本当に、あいつがやったんだな」
「そう、あいつが殺したの」
 さっきまで澤野がいた場所に顔を向け、感情を抑えた、俺にしか届かない声で、千穂——佐々木千穂は言う。
「わたしを」