文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

ずぶ濡れの武藤大樹 (紀野珍)

 女は頬杖をついて窓の外を眺めていた。その横顔に表情らしい表情はなく、まるで洋式便器に座って便意の訪れを待つ精神科医のようだ。
 夕刻のファミリーレストラン。大通りに面した窓際のテーブル席に、勇気と怯懦のように相対して腰をおろしてから、ふたりはまだ言葉を交わしていない。店内は、封切されて三週間になるコメディ映画をレイトショーで上映するシネコンの第3シアターといった混み具合だ。
 あっち向いてホイをスロー再生したような緩慢な動作で、男も外へ視線をやる。多くの人が奥歯を磨く歯ブラシのように忙しなく歩道を行き交っている。苺みたいな色に髪を染めた、キリンのように背が高い若者が目に留まる。駅を目指す勤め帰りの人波を、大御所タレントのサインみたいに淀みなく遡っていく。目当ての施設に入ったのか、路地に折れたのか、若者は七十六日目の噂みたいにふっと姿を消した。
「お待たせいたしました」
 声を掛けられて、男はウェイターが来ていることに気付く。ストライプのスカートエプロンを着けたウェイターは、一週間ほどまえに動画サイトで見た、笑っているように見えるミニブタを連想させる笑みを顔に貼り付けたまま、トレイに載せた二枚の皿をテーブルに置く。時給なりの慎重さで。
「以上でご注文の品はおそろいでしょうか?」
 伝票を残してウェイターが去ると、男は「葛藤」を実体化したらこうであろうという形状の鶏の唐揚げにフォークを突き刺し、二十年来の親友を自宅へ招き入れるように口へ運ぶ。べつに腹が減っていて頼んだわけではないらしい。咀嚼も、その後ドリンクバーのアイスティで飲み下す様子も、発狂した猿の自慰行為のようにおざなりに映る。
 
「あ」
 窓外に顔を向けていた女が、ゲップのように声を漏らす。「雨」
 登場するやいなや名探偵が首をくくった密室殺人事件の舞台よろしく、外の景色がにわかに慌ただしくなる。ゴキブリのように駆けだす人。ダニのように余裕の面持ちで傘を開く人、ドブネズミのようにコンビニ避難する人。シロアリのようにタクシーを呼び止める人。彼らを容赦なく叩く大粒の雨は、アスファルトの路面に皮膚病のような水玉模様を作り、やがて一面を芸能界みたいに真っ黒に染める。
 男がいる店にも、アクセルとブレーキを踏み違えた自動車のように何人かが飛び込んでくる。降り出してからまだ五分足らずだというのに、彼らはみな海産物のようにたっぷり濡れていた。いやあ参った参ったとハンカチで顔や頭を拭いながら店員に案内される、名前は思い出せないが北野映画の常連である俳優によく似たスーツ姿の中年男性の滑稽な振る舞いは、小学生のとき、未明からの土砂降りにもかかわらず傘を差さずに登校し、ずぶ濡れで教室に入ってきてクラスメートを唖然とさせた武藤大樹のようだった。
 
 店内のざわめきを、雨音がかき消す。
 
 テーブルに置かれたスマホに着信があり、バイブレーションが長い屁のような間抜けな音を立てる。女のものだ。女は液晶画面を一瞥し、ちょっとごめんと言い置いて腹を下したサッカー解説者みたいな顔色で席を立つ。男はその言葉に反応せず、もう一方の皿からご当地アイドルの歌声のようにしなびたフライドポテトをつまみ上げ、一本、また一本と何かの機械みたいに機械的に口の中に放り込む。
 ポテトをちょうど十本減らしたところで、女が戻ってくる。あの日、濡れ鼠の武藤大樹はいったん担任にどこかへ連れて行かれ、本人のものでない体操着に着替えさせられてふたたび教室に現れたのだが、そのときの彼のような表情をしていた。
「あの……そろそろ行かなくちゃ」
 テーブルの傍らに立ったまま女が言う。「たまたまうちに傘がなくて」と言った武藤大樹のようにか細い声で。
「そう。俺はもうちょっといるよ」 
 女を見上げて男が答える。「大変だったねえ」と武藤大樹に答えた誰かのように、何でもないといった口調で。
 女は椅子に置いてあったバッグを取り上げ、変態マジシャンのような仕草で財布を出す。男は蟹みたいに二本の指で伝票をアクリルの筒から抜く。
「いいから。急いでるんだろ」
 女は男を見返す。男の位置からだと、武藤大樹のランドセルの底に溜まった雨水のような涙が、女の目尻に浮かんでいるのが分かったかもしれない。
 何も言わず、女は出口へ向かう。その手にはいつの間にか折りたたみ傘が握られていた。変態マジシャンのようだ。
 外へ出た女が変態マジシャンのように傘を差したのを確認すると、男は全身生乾きの武藤大樹が自分の席に着いたあとそうしたように、テーブルの上に視線を落とす。蟹のように伝票を指に挟んだまま、身じろぎもしない。ほどなく、男はアイスティの残りを飲み干し、グラスをつかんで長年圧政に苦しんできた国民のように立ち上がる。直後、奥のテーブル席の中年女性と目が合い、気まずげに視線を外す。外した先で、別の客と目が合う。
 店内にいる全員が、男の顔を凝視していた。ある者は着席して上体をひねった不自然な態勢で。ある者はパスタを巻き取ったフォークを持ち上げた格好で。ある者は紙ナプキンを口に当てたまま。客だけでなく、ウェイターも通路で棒立ちになり、男を見つめている。
 この状況はまるで、あの日、教室の入口でみんなの注目を浴びた——。
 背後からシャツの裾を引かれ、男は振り返る。十歳くらいの男児がいた。頭髪とTシャツの肩口がしとどに濡れている。
 男児が口を開く。
「びしょ濡れの武藤大樹みたいだね」