文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

そして (紀野珍)

 男は夢を見ていた。夢のなかで、彼は旅人だった。

 

 旅人はベッドに横たわり、トタン屋根に砂が当たる音を聞いている。
 夏の一時期、雨のように砂が降る街がある、という噂は本当だった。もちろん雲が砂を生み出すわけはなく、砂漠で巻き上げられた砂が流れてきているのに違いないが、その降り方はまさに雨季の雨のようだ。砂は旅人が投宿した昨夕から間断なく降り続いており、止む気配がない。
 部屋の隅に置かれた金盥が、雨漏りならぬ砂漏りを受けている。くたびれた容器の底に、こぶほどの砂山ができている。
 降りに強弱があるのも雨に似ている。勢いを変えつつ降砂が屋根を叩く音は、旅人に波の音を連想させた。そういえば、往来を行く地元民はみな、砂避けに水中眼鏡を装着していたが、彼らは海を見たことがあるのだろうか。
 砂粒が奏でる波の調べを子守唄に、いつしか旅人は眠りに落ちる。
 旅人は夢を見た。夢のなかで、彼は会社員だった。

 

 会社員は英語を浴びていた。そうとしか言えない状況だった。
「Excuse me」
 日曜昼の繁華街で、後ろから声を掛けられた。振り向くと男がいた。東アジアの人間だなと判断した。
「Could you tell me the way?」
 ガイドブックを掲げて男が言う。聞き取りやすい英語だった。これなら——と思った。地図を示しながらであれば単語の羅列でなんとかなりそうだし、行き先が近ければ案内してやってもいい。どうせ暇なのだ。
「オーケイ」と応じた——のが運の尽きだった。
 男はぱっと花が咲くような笑顔を見せる。そして、英語の奔流がはじまった。
 言葉として把握できたのは、出だしの「Thank you」だけ。あとはなにを言っているのか見当も付かない。とんでもない早口なのだ。え? え? え? 一瞬でパニックに陥る。男は会社員の目を直視したまま、一方的に喋り続ける。なんなんだこれは。道を尋ねるんじゃなかったのか。なにを長々と語っているんだこの男は。
 超高速の読経にしか聞こえない英語の弾幕に、あるフレーズが頻出することに気付く。you know。耳が「you know」を補足しはじめる。こいつ、「you know」って言いすぎだろう。you know。いくらなんでも常軌を逸した頻度だ。you know。知るか。初対面だぞ俺ら。you know。分かってほしかったらちゃんと分かるように話せ。you know。うるせえいい加減にしろこの野郎。
 男の早口はますます加速しているように思えた。機銃掃射のごとくくり出される言葉が英語かどうかもすでにおぼつかない。こいつ、息継ぎはしているのか? さらに速度を増す。発話に合わせて早回しで動く口許に目が吸い寄せられる。そこから放たれるのは、もはや人語ではない。ブザーみたいなノイズだ。視界の端で、男がガイドブックを放り投げるのが見えた。
 いつまで続くんだ。逃げ出したいが、男の言葉に絡め捕られたように身体の自由が利かない。通行人が向ける好奇の視線が痛い。冷たい汗が背筋を伝う。誰か、助けてくれ——。
 ぎゅっと目をつむると、場面はアパートの一室に切り替わる。照明を落とした部屋で会社員は布団にもぐり、虚空を見つめている。
「大変な一日だったなあ」
 やがて会社員は眠りに落ちる。
 会社員は夢を見た。夢のなかで、彼は医者だった。

 

「お客さまのなかにお医者さまはいらっしゃいませんか」
 ついにきた、と思った。医者はスマホをテーブルに置き、シートに深く座り直す。膝に載せていたブランケットが床に落ち、慌てて拾い上げる。ペットボトルに手が伸びかけるが、よす。しわぶきをひとつし、さあいくぞ、と顔を起こすと、高く挙げられた腕が前方に見える。キャビンアテンダントが早足で駆け付ける。挙手をした男が立ち上がり、乗務員に誘導されて通路の奥へ消える。
 客室の空気が緩む。固唾を呑んでことの成り行きを見守っていた乗客がいっせいにお喋りをはじめる。
 喧噪のなか、医者は呆然としていた。「なんだよ」と声に出して、深く溜息をつく。スマホを手に取り、暗い画面をしばらく眺め、上着のポケットにしまう。ブランケットを広げて肩までかけ、シートにもたれて目を閉じる。
 無念さと、それよりはるかに大きな安堵感に包まれて、医者は眠りに落ちる。
 医者は夢を見た。夢のなかで、彼は猿だった。

 

 右手を鼻の近くに運んでは顔をしかめる。猿はさっきからそれをくり返している。
 猿の右の掌には、ほかの猿の糞が付いている。下で餌を食べたあと、猿山に戻る途中で踏んだのだ。地面になすり付けてあらかたこそげ落としたが、あらかたであって全部ではない。指の股や皺の奧に入り込んだ滓の滓が悪臭を発している。掌を嗅ぐ。くさい。顔をしかめる。手首から先をぶんぶん振ってみる。掌を嗅ぐ。くさい。顔をしかめる。
 猿山をおりると水場があるのは知っている。手を洗う知恵もある。掌を嗅ぐ。くさい。顔をしかめる。
 猿は、嗅覚への刺激が快楽に変わるのを認める。瞼が重くなってきた。猿は肘をついて横になる。なおも掌を嗅ぐのをやめない。くさい。顔は陶然としている。
 何十回目かで持ち上げた右手が力なく落ちる。頭を支えていた左腕も崩れる。とうとう猿は気を失った。
 猿は夢を見る。夢のなかで、彼は勇者だった。

 

 天まで伸びる光の柱。手を差し入れると、青い光が一瞬、白熱したように輝度を増す。冒険の記録が完了した。
 この聖なる光が闇を遠ざけるのだろう。セーブポイントの周囲にモンスターは出てこない。勇者は装備を解き、腰をおろす。道具袋から携帯食を取り出し、口に放り込む。
 咀嚼しながら、川向こうに屹立する古塔を見上げる。つぎに攻略するのはあそこだ。あの馬鹿高い塔の頂上にいるボスを倒せば、軍事都市〈バルザ〉へ渡る船に乗せてもらえる。
 塔の入口が騒がしいのには気付いていた。大きな鉄扉の前に冒険者がたむろしており、ひとり、またひとりと同志が現れてはその集団に加わる。連中の困惑した様子から察するに、どうやら扉が開かず、中に入れないらしい。
 ——メンテ(ナンスに入った)かな。
 ちょうどいい。腹も満たされたことだし、戦いに備えてひと休みしよう。
 丸めたマントを枕にして寝転がり、ほどなく勇者は眠りに落ちる。
 勇者は夢を見た。夢のなかで、彼は女だった。

 

 臍の奥に新たな温みが生じる。女は男が果てたのを知った。
 強く腰を押し付けたまま、男は肩で息をする。汗ばんだ胸板が規則的に動く。男の荒い呼気が、女の肌を無遠慮に撫でる。
 男が身体を離す。いつものように口づけをしたあと、女の隣に横たわる。
 女は寝返りを打ち、男と向き合う。ベッドサイドランプの柔らかな灯りに照らされて、男は笑みを浮かべている。この上なく満ち足りた表情だ。彼女も笑顔で応える。わたしは五分、いや、七分くらいには達したかしらと、まだ熱の残る下腹部に意識をやりながら。
 そういえば、と女は思う。女にしか分からない〈痛み〉、男にしか分からない〈痛み〉を異性に伝えるための眉唾な譬え話はした覚えもされた覚えもあるけれど(男が陣痛を体感したらショック死する!)、〈快感〉のそういうのは聞いたことがない気がする。なぜだろう。理解できないのはいっしょなのに。さっきわたしの身体に生じた快感は、殿方にとってはどれほどのものなのか。男の絶頂を一〇〇としたら、女のそれはいくつくらいになるのか。
 益体もない思考を打ち切る。いつの間にか男は寝息をたてていた。女も眠気を覚え、瞼を閉じる。眠くなってはじめて、自分が酷く疲れていることに気付く。今夜は仕事を終えた足でここへ来たのだった。女はすぐに眠りに落ちる。
 女は夢を見た。夢のなかで、彼女は狂人だった。

 

 狂人は狂っていた。自分が狂っていると分かっている。それゆえに俺は狂人なのだろうと、彼は思っている。
 狂人は机に向かい、一心不乱に小説の文章を書き写している。ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』。奇矯ではあるが、狂気じみた行為とまでは言えないかもしれない。だがやっぱり狂っているのだ。狂人の俺が行っているのだから。
 室内に、ペンが紙を叩く硬い音だけが響く。
 ノートの上で躍動していた右手が不意に止まる。レコードの針を持ち上げたように音が途切れる。彼は眠っていた。目を開けたままで。不気味な光景ではあるが、狂人のことゆえ不思議はない。
 狂人は夢を見る。夢のなかで、彼は役者だった。

 

 曇天の平日。起きたばかりで昼夜の判別すらつかない役者は、仰向けに寝たまま布団から右手を出し、枕元に置いたケータイをつかむ。ボタンを押し、眩しげに画

 

 大地が軋む。未明の地震が、夢見る者を揺り起こす。
 まず、役者が消えた。
 ついで、狂人が消えた。
 女が消えた。
 勇者が消えた。
 猿が消えた。
 医者が消えた。
 会社員が消えた。
 旅人が消えた。
 男が消えた。
 そして——。