文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

自由律に散文(xissa)

チョウの標本を捨てる

 

おしゃれなブティックをこっそりのぞいていると、中からほほえむ人がいた。
とっさに眼を伏せ逃げようとしたが足がすくんで動けなかった。どうぞ奥もごらんください、とドアを開けられてしまった。

おしゃれなブティック然としたおしゃれな店員さんの輝くような笑顔に、おどおどと店内へ移動する。落ちた肩、突き出した首。壁に張り巡らされたあかるい鏡に映る自分の姿がいちいちこの店にふさわしくない。
今日はお買い物ですか?何かお探しですか?
ぴったりと斜め後ろに付いてくる彼女の立ち居振る舞いに私は押し潰されそうだった。
初めて会う人にどうしてこんな笑顔を見せられるのか。親しげな声で話しかけられるのか。
彼女は拒絶を恐れていない。恐れていない、というか、知らないのかもしれない。否定されたことなどないのだ、きっと。他人からひどく傷つけられたことも喰いものにされたこともないし、これから先もそういうことが自分に起こるなどこれっぽっちも思っていない。むきだしの私とは違う。
噴き出す自己嫌悪に飲み込まれる寸前でじりじりすきを窺ううちに、私は掛けられていたモノに手を触れてしまっていたらしい。そのスカート今日入ってきたばかりの新作なんです!と宣言する彼女の声に我に返った。揺れる視界の端で値札をそっと見る。こんなの買えない。買えても着られない。
彼女は満面の笑顔で色違いをいくつもハンガーごと抜き出した。
あの、これ、ちょっと短くて。とその場から離れたい一心でもごもごと呟くと、おまかせください、と言わんばかりに彼女は何かを取り出した。
こういう短いスカートにレンギスを合わせると、とってもすてきなんですよ。
レンギス。
彼女は黒いレギンスをスカートに合わせてみせた。
今年はレンギス、流行ってるんです。一度履くともう手放せなくなって同じものをください、って来られる方も多いんですよ。
彼女は自信に満ちた声で何度もレンギスを繰り返し、私は音を立てずに後ずさった。

ずいぶん昔の話だ。
その店はとうにないし、あってももうドアを開いてもらえるような年齢でもなくなった。
彼女のことを時々思う。今、どんな人になっているのだろう。自分のまちがいに気付いた(もしくは訂正された)彼女はどのような表情をし、どのような行動を取ったのか。そのサンプルが未だ私は入手できないままなのだ。

 


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寝て起きてまた食べている

 


寒い時期に川風に吹かれて歩く人などいない。隅田川はきらきら光っている。
時折ジョギングの人が通る。ゆるりとした流れの中を観光船がお尻を回して方向転換する。人はほとんど乗っていない。デッキに出ている人もいない。川の向こうの町は灰色にくすんで、ちいさな音をたてている。
東京は死の匂いが濃く流れる町だ。そこらじゅうに慰霊碑が建っている。気が付くと住宅地にもビルの間にも墓がある。
この川端も死者で何度も埋め尽くされたと聞く。その上を歩いている。大火も震災も空襲も通り過ぎた。今はとてもしずかだ。
ぽかんと晴れた空にお昼のサイレンが鳴る。猫が長々あくびする。桜はもう少し、先だ。