文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

父ぐずる(紀野珍)

眠気覚ましのシャワーのあとリビングに行くと、親父がヘコんでいた。
 上下スウェットの親父は腹這いでカウチソファに横たわり、両手で抱えたクッションに顔を埋め、足をじたばたと動かしていた。うーうーというくぐもった呻き声に混じって、鼻を啜る音が聞こえる。
 マジかよ。親父、泣いてんのか。
 わざと音を立ててドアを閉める。呻き声は止まない。足も動き続けている。ソファは親父でいっぱいなので、床に腰をおろす。テレビのリモコンに手を伸ばしかけてやめ、ヘコむ親父を観察する。
 ――お父さん、出世レースに敗れちゃったの。
 晩飯のあと、息子の部屋にやって来た母さんは、そんな言い方をした。そこで初めて、親父が帰宅していることを知った。
 ――相当落ち込んでいるみたいだから、無理に励ます必要はないけど、優しく接してあげてね。
 そう続けた母さんは、なぜか楽しくてたまらないという表情だった。
 出世レース、ねえ。
 自分の知っている親父とはおよそ結びつかない、ガツガツした言葉だ。温和で口数が少なく、万事において控えめな性分。母さん曰く「草食系男子の走り」。そんな人間が権謀術数渦巻く熾烈な競争に飛び込んだところで、最初から勝ち目はないんじゃないか。
「もおおおおおおおおお!」
 不意の大声に跳び上がる。親父だ。顔にクッションを押し当てたまま絶叫している。さらに、蛇のように身体をくねらせる。突飛で不気味な行動に呆然となる。なめらかに揺れる尻から目が離せない。
 憤りを発散する方法は人それぞれだろうが、俺の親父はこうか。こうなっちゃうのか。
 不思議と、馬鹿にしたり憐れんだりする気持ちは起こらならなかった。よっぽど悔しい、納得しかねる結果だったんだろう。同期にさきを越されたくらいじゃ、こうはならない気がする。部下にまくられたとか? いやいや、ひょっとして降格?
 五分ほどで尻振りは終わり、しばし静止したのち、ふたたび「うーうー」とバタ足が始まった。首の後ろに汗が浮いていた。
 そういえばと、今度はリズミカルに上下する素足を眺めながら思う。親父はここのところずっと帰りが遅いし、俺は俺で部屋に籠もりがちだしで、もう何日もまともに会話をしていない。
 それどころか、こうしてふたりきりになることもひさしくなかった。独特の動きで煩悶する父、黙ってそれを見守る息子、という奇妙な状況ではあるが。
 空気を掻いていた両足がぱたんと落ちる。同時に呻き声も止む。ソファにまっすぐ寝そべる親父。暴れすぎて電池が切れたか――と思ったら、すんすんと鼻を啜る音が耳に届く。
 親父が泣くのをしばらく聞いていた。
「なあ」
 意を決して口を開くと、室内に静寂が訪れる。
 俺はなにを言うつもりで声をかけたのか。あんまりくよくよするなよ、親父。親父が真面目で一所懸命なのはみんなわかってるから。いつもありがとうな、親父。つぎつぎと頭に浮かぶ文句を片っ端から捨てていき、最後に残ったものを放る。
「こんなところで寝るなよ。風邪ひくぞ」
 反応を待っていると、親父はもぞもぞと上体を動かす。クッションを抱え直したようにも、それで涙を拭ったようにも見えた。
 ほどなく返ってきたのは、いつもの親父の声だった。
「おまえもがんばれよ」
 予想外の方向から飛んできた一撃にたじろぐ。大学受験のことを言っているのだとわかり、咄嗟に「おう」と応える。
 壁の向こうでドアが開閉する音。それを機に立ち上がり、そそくさとリビングを出る。
 玄関に母さんがいた。
「あら。ただいま」
「出かけてたんだ」
「うん、ちょっとコンビニまでね」レジ袋を軽く持ち上げて見せ、リビングのほうに一瞬視線を送る。「父さん、見た?」
「見た」自然と小声になる。「親父、落ち込むとああなるんだな」
「ああなるの。おもしろいでしょう」
 本当におもしろがっている顔で言う。
「あれは、長引くの?」
「まさかあ。ひと晩寝たらすっきりよ」
「そうなんだ」
 まさかと言うなら、息子にとっては全部がまさかなのだが。
 母さんは、んふふふふ、と笑い、上目遣いで尋ねてくる。
「なんか話した?」
「いいや、なんにも」目を逸らして応える。「ずっと泣いてるし」
「そっか。じゃあわたしが相手してあげなくちゃね。――あんたはまだ起きてるの?」
「うん、もうちょっとがんばるつもり」
「あんまり根を詰めすぎないように」
 そう言い残して、母さんはリビングへ消えた。
 直後、「もおおおおおおおおお!」という声が聞こえた。