文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

聞けない遊びとにゃんぱらり(井沢)

ああ、私はいつかこれを忘れてしまう。
その感覚だけが残っている。
私はもうすぐこの出来事を忘れてしまう。日々に埋もれてもっと大きくなったらきっと全部消えてしまう。何なら涙さえ流した感覚もある。家の外だった気がする。人がいたような気がする。優しく切ない不思議な何かを目の当たりにした気がする。誰かと会話をした気がする。それでももう思い出せない。
ああ、私はいつかこれを忘れてしまう。
その感覚だけが残っている。


通路


姉といる時だけ二階の押し入れは階段に通じた。
三姉妹の末っ子は年の近い姉とよく遊んでいた。押し入れのケースに脚を掛け二段目によじ上り布団に挟まって内側から襖をぴったり閉められるか挑戦し、閉めたら閉めたでできあがった完全な暗闇にきゃあきゃあと声を上げていた。

ある日、姉妹は押し入れの下段右奥に銀色のトタンの衣装箱を見つけた。箱には夏には着ない冬物のセーター等が入っておりすうと樟脳の匂いがした。箱自体は重くてその場から動かせそうもなかった。こどもが身を潜めるに丁度いい深さと大きさだ。姉妹は無邪気に「かんおけごっこ」をしようそうしようと重い蓋を開け、その身を入れられるように衣類の束を崩さぬように外へ出す。すると、どうも箱の中の様子がおかしい。箱の底から階下に向けて四角いトンネル状に空間が伸びている。急勾配のすべり台のようだ。通じているのか行き止まりかよくわからない。覗き見る限り先に光はなく暗いばかり。
「見える?」
「暗いね」
「床はあるね」
「ちょっと見て来れるかも」
「あ」
姉が滑り出した。独り残っている方が怖い妹はあわてて姉の背にくっつくように後を追った。滑っていくトンネルの壁は階段と同じ黒みがかった木で床はすべすべしていた。滑り台はさほど長くなく、左カーブを描くと姉妹はごろんと吐き出された。階段の途中に出たようだ。きょとんとしてふたり目を合わせる。出口から見たトンネルは相変わらず暗かった。
その日から衣装箱を開けては秘密の通路を滑り階段に転げ出て遊んだ。トンネルもある日とない日があり、しかも一日一回しか通っちゃだめらしくだいたい二周目には入り口が無くなっていた。ある日には階段の壁が開いてトンネルの出口があるのを見つけ逆登ろうとしたが、手摺もない傾斜はきつく断念した。別の日に見ると壁はただの壁だった。

「あの出口が何段目にあるか数えてみん?」
それは名案とばかりに二階へ駆け上がり、衣装箱の蓋を開けて滑り下り、ごろんと一人、続いて一人と転げ出る。そこから段を数えながら下りる。
1、2、3、4、5段目。
一番下の段から見た出口はまだこちらと通じていた。最上段では西陽が舞った埃を照らしていた。


にゃんぱらり


二階のベランダから駐車場へ猫のように着地して、玄関から二階に戻りまた飛び降りて遊んだことがある。ということを帰省した際に母に言うと、
「ばかな。そんなことしてたら怪我してるでしょうに。」
と一笑に付された。
子供の頃ぶりに実家のベランダの柵をまじまじと見つめた。いくら子供でも頭が通る幅はない。では何故、柵の間に身をくぐらせあるいは乾燥機伝いに柵を跨いで、砂利の上に飛び降りたじーんと響く足の痛みまで体に残っているのか。もしかしたらベランダに進入した猫を見た記憶と別の身体的な記憶が入り交じり、にゃんぱらりと降りていったのを自分の体験として記憶してしまったのだろうか。だとしたら、その一人称化は憑依と変わらないのではないか。まいったな生霊サイドか。それにしてもその間私の身体はどうしていたのだろうか。

一緒にいたはずの姉には何となく聞いてしまってはいけないように思う。
感覚だけを残してまた消えてしまう気がしている。