文芸ヌー

生活に負担のないブンガクを。 文芸ヌー

紀野珍

奇跡(紀野珍)

「お父さん! 見て! お母さんが!」「ああ、奇跡だ。ミツコが目を開けてる……!」「……あなた、マユミ……。どうしたの、ふたりともそんなに泣いちゃって……」「お母さああああん!」「ミツコ! よかったな! よかったな!」「ほっほっほ。見てのとおり、おぬし…

願いが叶った話 (紀野珍)

行き交う人を見ると雨があがっているようだったので、傘をたたんで角を曲がる。ジュンヤくんのおうちがある、車一台が通るのがやっとの狭い道。そこにお母さんがいた。駆け寄って背中を叩く。「ああびっくりした。なによテッペイ。いま帰り?」「うん」「い…

夜の横断歩道で (紀野珍)

煌々とヘッドライトを灯した自動車が目の前を駆け抜ける。その距離が思ったより近くてよろめいた。 それで気付いた。水たまりに踏み込んだような感触があった。 少女は足もとに視線を落とす。 横断歩道の白線からはみ出した右足のつま先。そこを中心に波紋が…

スピーチルーレット(仮) (紀野珍)

にやにや笑いながら天野が馬場と近田のもとにやって来た。「お。にやにや笑いながら天野がやって来たぞ」「またおかしなことを企んでるんじゃないか」 シリアルキラーもかくや、という常人ぎりぎりのにやにや笑いを浮かべたまま、天野が話しかける。「おもし…

消えた! (紀野珍)

「わ。こいつ手挙げてる」「まじか」「世界的なマジシャンに消されるんだぞ。そんな貴重な体験、みすみす逃す手はねえだろ。ほら、おまえらも手挙げろ」「俺はいいわ。ここから見て楽しむんで充分」「右に同じ。——げっ。指名された」「まじか」「よっしゃ。…

私の答え (紀野珍)

「無人島に何かひとつだけ持っていけるとしたら、何を持っていく?」という設問があります。設問というと大袈裟ですね。ある種の心理テストや思考実験のようなもの、明け透けに言えば雑談のネタです。みなさんもこれまでに一度くらいは、したり、されたりし…

呼吸 (紀野珍)

「池端?」「おう、高見じゃん。ひさしぶりー」 平日の昼下がり。近隣住民には抜け道としても利用される住宅街の公園で、かつて漫才コンビを組んでいたふたりの男が再会した。 晩秋の日差しは強く、遊具から遊具へと駆け回る子どもたちは、深い穴のように濃…

犬のいる暮らし (紀野珍)

犬の顔が目の前にあった。ぎゅっとまばたきをしても、まだあった。 犬はわたしの瞼や眉間に鼻を近付け、ふすふすと匂いを嗅いでいる。鼻息と硬い髭が肌をくすぐる。これをやられると、どんなにぐっすり寝ていてもかならず目が覚める。 はいはい、おはようと…

夏風 (紀野珍)

背中を撫でられた感触で目が覚める。 顔を上げると、一面の白。その白は波打っていた。 ——ああ、カーテンか。 窓から吹き込む風を受けて、ヨットの帆のようにカーテンが大きく膨らんでいた。 ここは教室。自分の席。寝起きの頭を駆動し、状況を把握する。ど…

五月十七日、木曜日 (紀野珍)

約束の時間からちょうど三十分遅れで店に着いた。 予約している旨を店員に告げると、こちらへどうぞと奥の個室に案内される。週末の居酒屋は、仕事終わりの勤め人や喧しい学生らでごった返していた。 四人掛けの座敷席に澤野と千穂がいた。 「おう、お疲れ。…

ヒナコ (紀野珍)

ずぶ濡れの武藤大樹 (紀野珍)

女は頬杖をついて窓の外を眺めていた。その横顔に表情らしい表情はなく、まるで洋式便器に座って便意の訪れを待つ精神科医のようだ。 夕刻のファミリーレストラン。大通りに面した窓際のテーブル席に、勇気と怯懦のように相対して腰をおろしてから、ふたりは…

そして (紀野珍)

男は夢を見ていた。夢のなかで、彼は旅人だった。 旅人はベッドに横たわり、トタン屋根に砂が当たる音を聞いている。 夏の一時期、雨のように砂が降る街がある、という噂は本当だった。もちろん雲が砂を生み出すわけはなく、砂漠で巻き上げられた砂が流れて…

父ぐずる(紀野珍)

眠気覚ましのシャワーのあとリビングに行くと、親父がヘコんでいた。 上下スウェットの親父は腹這いでカウチソファに横たわり、両手で抱えたクッションに顔を埋め、足をじたばたと動かしていた。うーうーというくぐもった呻き声に混じって、鼻を啜る音が聞こ…

書き出し自選・紀野珍の5作品  (紀野珍)

「書き出し小説大賞」の常連が自身の掲載作品についてコメントする「書き出し自選」、第2回目を担当するのはわたくし、紀野珍です。「きのちん」と読みます。仮名表記名義でもいろいろやっています。以後お見知りおきを。 選ぶのは5本、と決めて採用作品リス…